西洋源氏物語(壱)
~青い瞳の光源氏とドレスを召した紫の上~
人生は多々、一変にしてひっくり返る。
そんな陳腐なことは美津もとっくに承知していた―――つもりだった。
しかし、実際、美津の人生のひっくり返り方というのは、常人の少女の想像と覚悟の遠く及ばぬものだったのだ。
もし、明治の東京の町娘がヨーロッパ名門貴族に嫁ぐことを想像できたとしたら、現代においてエイリアンに誘拐されたと主張する人々と同じ扱いを受けただろう。
美津の生活は一変した。
今迄の世界が、足元から崩れ去ってしまったのだ。
しかし、若く無知な美津は、どこに着地するのかも分からぬまま、その浮遊状態に楽しみを感じられる程の素直な順応力と柔軟性と強靭性を発揮した。
公使館に住み、日本人よりもむしろ外国人の方に多く会うようになると、彼らの外見に対する違和感はあっという間に無くなった。
「あぶら屋」には外国人の客が訪れることもしばしばあったから、僅かながらに見慣れていたともいえるし、見慣れてしまうと、むしろ日本人の方が見栄えしないように思えてくるから不思議なものだった。
初めは恐ろしく、奇妙にしか見えなかった異人達が、少しでも理解してみると、とても優れた人々であることが分かってくる。
西洋人に慣れだした美津は、はじめの頃、彼らにコンプレックスを感じるようにさえなっていた。
彼らは大抵美しかった。一方では、とても面白い容貌の持ち主も多かったが。
どういう理屈でそうなるのか、美津にはさっぱり分からなかったが、皆それぞれ目や髪や肌の色が様々で、目鼻立ちも一人一人でかなり違ったものだった。そして中身はといえば、外見にも増して個性的なものだった。
およそ西洋人というものは、心身の特徴というものを持たぬ者はおらず、一人として同じような者はいなかった。それに比べると日本人は見た目も中身も皆一様でのっぺり・・・・としたつまらない人種にさえ思えてしまう。
なるほど、外見と中身というのは、こうも関連するものなのかと美津は妙に納得した。
初めは水を泳ぐ魚の目の様だと思っていた夫の青い目も、いつしか澄んだ綺麗な色に思えるようになっていた。
美津の出会う西洋人達は、ハインリッヒを筆頭にして、皆優しく、上品で、賢く、立派だった。
時間が経てば経つほど、何故あんなに西洋人を恐れていたのか、自分でも前の自分が不思議になった。
美津はハインリッヒに大真面目な顔で、一度でいいから馬鹿で汚く風呂に入らない西洋人を見てみたい、と言ったものだ。ハインリッヒは大笑いして、いつかヨーローッパに行ったらたくさん見せてあげよう、と言った。
もちろん、中には意地の悪い西洋人もいて、東洋人を黄色い猿だと罵っているそうだが、本当に初めの頃の自分は、人間に怯える雌子猿のようだったと美津は思ってしまうのだ。
当然、日本人にも個性的で理知的で紳士的な人間は数多くいた。しかし、美津がそういう人々と出会うのは渡欧する直前のことで、紅葉館で「偉い人達」を見たことはあったが、親しく知り合うことなど無かったし、庶民の日本人しか知らなかった美津はいきなり西洋上流の洗練された人々―――特にハインリッヒと親交のあった人々はそうだった―――と出会って、教養や育ちの差を人種の差の様に見てしまい、大きな西洋人コンプレックスを抱えてしまったのである。
そして、そんなコンプレックスを最も掻き立てたのが、超人とも思える完璧な、夫のハインリッヒであったことは言う迄もない。

はじめ羅紗緬としてハインリッヒのもとに来た美津は、当然のこと、「主人」にへりくだった。
初めにとんでもないことをしてしまった負い目があるので尚更に。
しかし、そういう態度はむしろハインリッヒに苦々しい表情かおをさせるだけで、「やめてほしい」と言われてしまった。
無理もないこととはいえ、そういう態度がハインリッヒを「権力尽くで東洋の少女を情婦にしている人でなし」として扱っているのと同然で、いかにハインリッヒを傷つけているのか気付いていなかった美津は、どう振る舞ったらいいのか分からなくなり困ってしまった。
美津よりむしろハインリッヒの為を思って、耐え切れなくなったシーボルトが、とうとう二人の結縁けちえんの裏の事情を明かしてしまい、自然体でおいでなさい、と美津に忠告してくれた。
ハインリッヒは、言うなと言ったのに、と一応はシーボルトを咎めたが、しかし、ほっとした様子でもあった。
ハインリッヒに望まれていた訳ではないことを知るのは可哀想だったが、欺瞞を続けるのはさらに可哀想なことであり、彼自身辛くもあって、お互いの為に却って良くなかったのだと思い直した様だった。
もっとも、さらに大きな欺瞞があるのだから今更とも思ったが…。
美津は特に失望もしなかった。
自分の運の悪さ―――その時はまだそう思っていた―――には唖然としたが、ハインリッヒが強制的な征服者ではないことを教えられて、少なくとも彼を恨んだり嫌ったりしなくて済むことに彼女もまたほっとした。それどころか、ハインリッヒは美津の恩人だったのだ。
美津は、父親が自分を殺すことまでは無かっただろうと思ったが、それでも、ハインリッヒに拒まれていたら大きな傷が付いてしまっていたはずで、むしろハインリッヒにとっても迷惑な話であったはずなのに、わざわざ美津を護るために引き取ってくれたことを感謝した。
そのままなら、ハインリッヒが帰国した後、美津は愛人の庇護を失った羅紗緬として結局は惨めな人生を送ることになったかもしれないが、ハインリッヒは美津を羅紗緬の不名誉から救うために正式に結婚を申込み、日本の平民である彼女をヨーロッパ名門貴族の伯爵夫人として迎えようとしてくれたのだ。
その為にハインリッヒがどれ程の苦労と犠牲を払ってくれたのか、時が経って理解が深まるにつれ、その恩寵の大きさが増して感じられてくるのだった。

なぜ東洋の小娘一人の為にそこまでしてくれるのか、美津には不思議に思えたが、ハインリッヒの為人ひととなりを知るにつけ、徐々に分かるような気もしてきた。
ハインリッヒは、この上もなく優しい男であったのだ。
豊かな愛情と人情に満ち溢れ、誰にでも、どんな人種にも愛を注ぐ、人間愛の権化のような人なのだ。
ハインリッヒは慈善活動に熱心で、日本にいるとき、毎週日曜日のミサの後に貧民窟―――当時の不況で至る所に貧民がいた―――で米を配給していたのをはじめ、よく贈り物を持ってハンセン氏病の病院を見舞ったり、慈善事業の手助けをいつもしていた。
東京に大きな地震があり、修道院が運営する孤児院が崩れたときは、ヨーロッパにたくさんの手紙を書いて寄付を募り、ロスチャイルドがそれに応じて大金を出したことがある。
皆がハインリッヒを頼りにし、敬愛し、感謝していた。
その恐ろしく大きな仁愛ととんでもなく深い慈悲―――美津は何故かハインリッヒの善行に「恐ろしく」とか「とんでもなく」と形容したくなるような、異常な程に切々としたものを感じるのだ―――の源はカトリックの敬虔な信仰心であるらしい。
ハインリッヒは美津にカトリックを学ばせた。
全世界の宗教の融和を夢見ていたハインリッヒは、自分がどれほど信仰深くても本来自分の宗教を他人に押し付けたりはしなかったが、美津をヨーロッパに迎える為には、どうしてもキリスト教を理解させる必要があったのだ。
ハインリッヒは、日本に三十年以上滞在している堪能な日本語で教えを説く優秀で人格者の宣教師のもとへ美津を通わせ、修道士、修道女が活動している病院や孤児院や修道院などに頻繁に連れて行っては見学させた。
素直な美津は、これらの人々の善行にいたく感激感動し胸を打たれた。
揺るぎない仏教徒であった喜八はキリスト教徒を「ペテン師」と呼んでいた。しかし、その「ペテン師」達が身を捧げて哀れな者達に尽くす姿はどうだろう。
美津には彼らの貧しく薄汚れた姿が、高貴な輝きに満ちているようにさえ見えるのだった。
美津はますますハインリッヒを尊敬し、新しい世界を開いてくれたことに感謝した。そして喜んで彼の勧めを受け、クリスチャンの洗礼を受けたのだった。
荘厳な洗礼式が行われ、美津はマリア・テクラというクリスチャン・ネームを授かった。
ハインリッヒと違って、人生において何もすべきことを見出せない人間が、何かをしなくてはいけないことを悟ったとき、シンプルな方法として慈善に走るのはよくあることかもしれなかった。
美津はもともと仏教徒だったが、彼女にとってカトリックと仏教は相反するものではなく、真実に至る道の異なる面として整合のつくものであるらしかった。

美津は宗教と共にまた言語も学ぶ必要があった。
主に英語を習うこととなり、またハインリッヒとはお互いにドイツ語と日本語を教え合った。
お互い異国の言葉を覚えるには、ねやしとねくものはなし、である。
しかし、どうもあまり艶っぽくという訳にはいかず、まだ簡単なことしか話せなかった内は、二人の寝物語は文字通り「お伽噺」だった。
子供のようだった美津は、外国の美しいお話や神話を好んでハインリッヒにおねだりし、自分もまた日本のお話をハインリッヒに嬉しそうに語るのだった。
美津は和歌を作ることが好きだったようだがあまり本などは読ませてもらえず、日本語でも文学的素養は無かったが、唯一知っていると言っていい文学であった「源氏物語」をハインリッヒに語って聞かせたことがある。
ハインリッヒはいやに真剣に耳を傾けていたが、何か深く考え込んだ様子で「その話がとても気に入ったよ」と呟いた。
母の面影を宿す女を愛し、少女を育て上げて妻とした男―――。
遥か東洋の九百年も前の物語に自分を予言するような人物が現れていることに驚いた。
しかしもちろん、美津が源氏物語の愛読者であるからといって彼女が自分の過去を受け入れてくれると考える程、ハインリッヒは愚かではなかった。
密かに過去に苦しむハインリッヒは、しばしばその悪夢に悩まされ、一度だけ、美津の隣で呻いて飛び起きてしまったことがある。
「マリー、許してくれ…!どうしても…城から抜け出せなくて…。
頼む…俺の子を返してくれ!」
びっくりして美津も飛び起きてしまい、涙まで浮かべて拳にシーツを握りしめ歯を食いしばって震えている夫を見て更に驚いた。
必死に声をかける美津にようやく気が付いたようにはっとすると、ハインリッヒは赤面して手の甲で涙を拭いながら、時々神経がたかぶぶると悪夢を見てしまうのだ、と弁解した。
突然の寝起きのことだったし美津はまだドイツ語が不完全だったので、寝言の内容を悟られてしまわなかったのが幸いだった。
美津を再び寝かしつけながら、胸に縋りついてくる美津の温もりに自分もまた縋るような思いで、ハインリッヒは彼女を腕の中に抱きしめ眠りに落ちた。

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