アンチ・シンデレラ(Ⅳ)
父は私が日本人の平民と結婚することに反対はしなかったらしい。
もちろんひどく驚いたそうだし、決していい顔はしていなかったらしいが、息子夫婦に会ってみたい、とぽつりと呟いたそうだ。
父にしてみれば大変な譲歩だっただろう。
父も年だったし、十年に渡る私との確執に疲れてしまったのかもしれない。
弟妹達とはよく文通していたが、父には今迄ろくに連絡もしなかった。最後には絶縁状まがいの手紙まで叩きつけて…。
結局、私は父を許さないまま逝かせてしまった。
覚悟はしていたはずなのに、苦い後悔ばかりがこみ上げてくる。
あなただって、私を許していなかった筈ではないか。今さら寂し気なことを言われても、死んでしまっては手遅れだ…。
もっと早く私の方から謝るべきだったのだろうか。きっとそうなのだろう。
しかし私にはできなかった。
本当にマリーを愛していたから。

旧姓で呼べばマリー・カレルギーという私の母はとても美しいひとだった。
父は母を溺愛し、「私の天使」と呼んでいた。
幼い私も、母は天使なのだと本気で信じていた。
母の様に美しく、愛らしく、気品に満ちた女性を愛さない夫はいなかっただろうが、父は母より十五才も年上で、それが一層娘の様な妻への愛を深めたのだろう。
母はとても若く少女の様で、無邪気で優しかった。
美点を挙げればきりが無く、私達一家の宝物だった。
私は十二歳の時に神学校の寄宿舎に入ったが、週末にしか母と会えなくなるのがとても悲しかった。
私は母と離れたくなかったが、十二歳にもなってそんな赤ん坊の様なことでどうするのだと父には叱られた。
離れてますます募る母への恋しさ―――そしていつしか、それが本当に恋だと気付いた。
私は実の母親に恋をしてしまったのだ。
小さな頃から敬虔なカトリックの教育を強く受けて育った私の罪の意識は並大抵のものではなかった。
むしろ母から離れていて良かったのかもしれない。もし母の側にいて自分の気持ちを抑えきれなくなっていたら―――考えるのも恐ろしい。
母があんなに早く亡くなってしまわなければ、私は母への愛と罪悪感に引き裂かれて狂ってしまったかもしれない。
―――もうとっくに狂っていたのかもしれないが。
私が十七歳の時、母は猩紅熱にかかり三十六歳の若さで没してしまった。
天使は神の御許へ戻った。
父は母と暮らしたロンスペルクを離れてオッテンスハイムの城に移り、一生再婚しなかった。

私は卒業後ウィーンで軍務に就き、その時に二人目のマリーと出会った。私が二十歳の時だった。
母と同じ名を持ち―――ヨーロッパではマリーという名は珍しいものではなかったが―――母の生まれ育ったフランスから音楽留学に来ていた少女。
それだけでも私の興味を引くのに十分だったが、その上に彼女は母にとてもよく似ていたのだ。
見た目も似ていたが、それ以上に、母にしか醸し出せないと思っていた天使の様な雰囲気がそっくりだった。
母と同じ優雅なフランス語を話す声も似ている…。
私はたちまち彼女に夢中になった。そして彼女もまた私のことを愛してくれた。
彼女は神からの贈り物に違いないと私は思った。
神は私を憐み給い、私のもとに再び愛する母を戻して下さったのだ。今度は血の繋がらない他人として…。
私はライオンの仔を彼女にプレゼントしたことがあり、子獅子を引き連れて散歩する私達の姿は人目を引いたものだ。やがてはシェーンブルンの動物園に寄付しなくてはいけなくなったが。
私達は熱愛し、やがてマリーに子供ができた。
私はいずれマリーと結婚するつもりだったが、それを知った父は激怒した。
無理も無いだろう。私はまだ未成年だったのに(*当時のオーストリアでは満二十四歳で成人だった)子供を作り、しかも相手は平民の少女だった。
クーデンホーフ家の名誉に泥を塗ってしまった訳だし、息子の将来のことも案じたのだろう。
私はオッテンスハイム城に呼び戻された。
私としては、軽率ではあったが真剣であることを理解してもらい、平民のマリーをクーデンホーフ家に迎えることを認めてもらう為に、父と話し合い説得するつもりだったのだ。
しかし父は全く聞く耳を持ってくれず、さんざんになじられた私は、思わずカッとなって言ってはいけなかったことを口走ってしまった。
私も母を女性として愛していた。二度とあなたに私から愛する女性を引き離させはしない―――と。
父は驚き恐怖の色を浮かべ、まるで悪魔でも見るような眼を私に向けた。
その一言で、私はもともと僅かな希望をめちゃくちゃにしてしまったのだ。

私は城内に監禁された―――それも首輪と鎖に繋がれて!
母親を女性として恋うる様な男は畜生同然という訳だ。
食堂や寝室、バスルームといった生活するのに必要な数室をぎりぎり往き来できるだけの長さの鎖を首輪に付けられ、服もそのまま着替えができる様に前開きのものだけが与えられた。
常に見張りも付けられていた。
あの時の父も私も、本当に正気では無かった。
もしあの事件が無ければ、そんな生活がいつまで続いていただろうか。
ある朝、城の庭でマリーとその親友だった少女の死体が発見された。死因はピストルだった。
私はようやく鎖を外され、恋人の遺体に会うことを許された。
なかなか戻ってこない恋人にれて追いかけてきたマリーは、父に拒まれ、説得され、私と結ばれないことを悟り絶望してしまったのだろう。
ただ当てつけに自殺したのか、少しでも恋人の側で死にたかったのか。
親友の少女はマリーをめようとしたのだろう。二人で死んだのか、間に合わず自分も後を追ったのか…何も分からなかった。
できるものなら私も後を追いたかった。しかしそうはできなかった。カトリックでは自殺は重罪とされているし、私は自分の子を見つけなくてはいけなかったのだ。
マリーは死ぬ前に私達の子供を隠した。
子供に咎めが及ぶことを恐れたのか、あるいは子供がクーデンホーフ家に復讐など考えない様に引き離したのか。天使のようなマリーなら私の将来のことを案じて子供を隠したのかもしれない。
いくら探しても、私達の子は見つからなかった。
私と父の亀裂は決定的なものとなったが、それでも子供の捜索に関してだけはお互いに協力し合った。

私は本来、軍務よりも学問がしたかった。
私はその後遠くルーマニアとロシアの国境近くにあるチェルノヴィッツの大学に学んで―――要するに追放だ―――法学の博士号を取った。
父はマリーの関係者が私に復讐するのを恐れていたし、私も父のもとを離れたかったのだ。
貴族の若様が平民の娘を弄んで自殺に追いやり逃げ出した―――そう言われても私には一言も弁解できないところだが、私をよく知る領地の人間や事情を知る人間は、むしろ父の頑固さに怒りを覚え、追い出されたような私に同情してくれた。
やがて、子供―――息子だったらしい―――が病気で死んだと連絡が来た。身元が分からないように届けられたその手紙には、いつ死んだのかもどこに埋葬されたのかも書かれていなかった。
本当に死んだのか確かめたかったが、そのすべはもはや無かった。
私は決意した。これからは一生、罪を償って生きていこうと。
もともと私は、宣教師になって世界を巡り、神の教えによって愛と義を広める人間になりたいと思っていた。
それも父に反対されていたのだが、結局、我が家の家業とも言える外交官になり―――それなら反対はできないはずだ―――ヨーロッパを飛び出した。
私は父を許せないと思っていた。父に許してもらえないと思っていた―――今迄は。
しかし、私はあなたを許します、父よ。だからあなたも私を許して下さい…。
可哀想な父上…。
私は祈り続け、泣き続けた。
初めて見る私のひどい落ち込み様に、今度は美津の方が一緒になって涙を流し深い同情を示した。
美津は私の罪を知らない。まだ知らせる訳にはいかない。
可哀想な美津!
喜八は私のことを青い目の怪物と言った。
目の色のことはさておき、私は正真正銘、怪物だったのだ。

気難しい父は晩年、他の子達からも煙たがられていた。皆父の死を悲しんだが、一面、解放感を得たことは否定できない。私もだ。
弟妹達には、父の死後のごたごたを片付ける為に、長男である私にとにかく一度帰ってきてほしいと切望された。
父は私の遺産放棄の手続きを取っておらず、少なくともロンスペルクは母の財産で、さらに、私ではなく私の子に相続されることになっていたのだ。
外交官は三年間勤めると長期休暇を取ることができる。
美津もそろそろ「実地訓練」に出してもいいくらいに仕上がってきていたし、父は亡くなってしまったが、私の家族と美津を引き合わせてやりたかった。
私はついに美津と正式な入籍をする為に婚姻届を出し、長期休暇願と日本公使職の辞任願を本国に送った。
数ヶ月後には許可が下りたが、その時、また喜八と一悶着が起こってしまった。
正式な結婚をすれば私達が日本を離れなくてはいけないことは分かっていたが、喜八は娘や可愛い盛りの孫達と別れるのが辛かったのだ。
オーストリア=ハンガリー二重帝国に美津の籍を移すのに日本政府に結婚証明を出してもらう為に、親の喜八にも許可状を書いてもらわなくてはいけなかったのだが、喜八は私のことを人さらいだの泥棒だのとさんざんに罵った。
しかし私も絶対に妻子を日本に置いたまま手放す気など無かった。
結婚の時のいざこざを蒸し返してしまったような形になったが、結局喜八も今さらどうしようもないことは分かっていたので、何とか許可状を書いてもらい、ようやく日本を出発することができた。
休暇の後、次の任地には、また東洋に派遣してもらうつもりだった。三年勤めればまた長期休暇を取り日本へ戻って来ることもできる。
私は世界各地で冒険をしてきた。途中からはバービックも一緒に。そして、この日本で美津との結婚という最大の冒険をしたのだった。

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