西洋源氏物語(弐)
~青い瞳の光源氏とドレスを召した紫の上~
努力家の美津はどんどん教養やマナーを身に付けて、ハインリッヒの期待に応えた。
しかし、かなりの頑張り屋さんではあったというものの、やはりどうしても苦手なことはいくつかあった。
美津は運動神経が良く、木登りが得意だったり喜八に柔道を教えられたことがあったり、意外にも御転婆のような一面があったが、それにも関わらず乗馬だけはどういう訳か苦手であった。
美津が最初に着た洋装は乗馬服で、乗馬と馬の調教に通じ修達していたハインリッヒから直々に指導を受けたが、あまりに美津が下手っぴい・・・・・だったので、あの温厚なハインリッヒがつい我を忘れてドイツ語で軍隊式の厳しい叱咤を放ってしまう程だった。
後には何とか乗れるようになったが、それでもあまり上手であるとは言えなかった。
そして美津は船に酔いやすかった。
美津はハインリッヒと世界中を旅行することになるが、旅行自体はとても楽しかったのに、途中船に乗る度にいつもひどい目に会ったのだ。ハインリッヒは慣れのせいか、どんなに荒れた海の上でも、船に酔うことは全く無かった。
外交官の妻として、そして何より、馬と船をこよなく愛するハインリッヒの妻として、これは大変に困ってしまうことなのだった。
美津はどうも「揺れる乗り物」とか「バランスを取る」ということは苦手であったように見える。
また、初めてドレスを着た時は、着付けがあまりよく分からずに紐など後ろ前に着てしまい、着難きにくい服だがドレスとはこういうものなのだろうと思って、初めての美しいドレスを着て誇らしげにハインリッヒとたまたま居合わせた客の前に見せに姿を現すと、二人に間違いを指摘されて吹き出されてしまったという、可愛らしく微笑ましい失敗もある。
しかしおおむね、美津は素直で呑み込みが早く、ハインリッヒにとってはなかなか出来のいい生徒であった。
美津は西洋的な教養は全く無かったが、しかし紅葉館で立派な行儀作法を身に付けており、三味線や琴その他の和楽器をこなし、唄や踊り、お茶お花といったあらゆる日本女性の修養を積み、書道や絵の腕前も相当なものだった。
美津はレディである前に大和撫子だったのである。

美津は学ぶことが多かったが、ハインリッヒはと言えば、それを遥かに上回る勉強家だった。
毎日、日本語、中国語、朝鮮語などの授業を受け、あっという間に上達して、すぐに通訳なしで日本人と会話ができるようになってしまった。
特に宗教用語は相当なもので、「大蔵経」を読みこなし、かの「妖怪博士」井上円了をはじめ各宗派の高僧や神学者たちと哲学談義をしていた程のレベルであった。
ハインリッヒは何でもできたが、特に語学と哲学に関しては天才だった。
ヨーロッパの人間は複数の言語を話すのがほぼ当然で、お互い似通ったインド=ヨーロッパ語族の言語の範疇ではマルチリンガルも多かったが、ハインリッヒは全く異なる語系の言葉を複数習得していたのである。
ハインリッヒはどこの任地でも、ロンスペルクに戻ってからも、世界中の学者たちと頻繁に文通しており、美津は何種類もの文字の手紙の束をいつも目にしたものだった。

ハインリッヒの教育は厳しかった。
しかし、普段はいつもとても優しく、陽気で明るくて、よく美津を笑わせてくれた。
美津を女王の様に扱ってくれ、常に丁寧で礼儀正しく接してくれた。
ハインリッヒは女性を尊重するフェミニストであったが、一方で硬派な男らしさ、紳士らしさにこだわった。
男性に媚びてちやほやされるような女性や、女を武器にするような女性は苦手で、しっかり者の主婦や子供思いの母親といった女性達を賛美していた。
封建男性的というより、ロマンチストだったので、少年じみた自分の女性に対する幻想を傷付けるような女性は苦手であったのだ。
美津がハインリッヒを尊敬し信頼しているが故に従順であることが分かると、今度は素直に喜んだ。
「偉い男」に従う方が、そう育てられてきた美津にとっては楽なのだということも理解したのだろう。
美津は常に夫を立て、ハインリッヒはいつも妻を気遣っていた。
主張し合い押し付け合うモダンな関係より、譲り合い尽くし合うレトロな関係の方がハインリッヒの夫婦の理想であったのだ。その点においては、美津はまことにハインリッヒに相応しかった。
美津は決してハインリッヒの寵に馴れ、つけあがるということは無かった。
お互い思いやっている内が華であり、我の押し付け合いになったら終わりだということを本能的に聡い彼女は分かっていたのだろう。
ハインリッヒには威張ったところや偉そうなところは少しも無かったが、それでいて他人を自ずと従わせてしまうような貫禄というか風格があった。
威圧的では無いのに溢れるような威厳に充ち満ちていて、どこから見ても貴公子であり、帝王然としていたと言ってもよかった。
美津はただハインリッヒに従っていればよかった。
この男のやることに付いていけば何も間違いはないことを、賢い美津はすぐに悟った。

もっとも、ハインリッヒといえども完璧ではなく、人間らしい弱点も、実は結構あったのである。
ひどく几帳面でかなりの神経質であり、そういうところは美津を少し疲れさせたが、その割には浮世離れしたところがあり、妙なところで抜けて・・・いる。
情念と執念が深く、愛着と執着が強く、あることには強いこだわりを持つ一方で、そうでないことにはおよそ無頓着だった。
幾つか例を挙げていけばまず、格別に愛して、総理大臣の伊藤博文や他の高官達が見学に来る程立派な馬房―――因みに、その主馬頭は全身に入れ墨があったというものすごい男だった―――を持っていた馬の他、主に小動物を好んでよく飼い、犬や猫、鸚鵡や梟などに次々と手を出した。
梟のつがいを飼っていたとき、ハインリッヒはちょうど仏教に凝りだしたところだったので、梟が生きた雀を餌としていたのが仏教の殺生のタブーを思い起こさせ辛い気分になってしまって、バービックには死んだ雀を与えるように言っていた。
しかし、バービックも死んだ雀など手に入れる為には殺生をするしかなかったのだ。彼も辛い気持ちになってしまって、しかも梟は死んだ雀を受け付けず、生きた雀しか決して食べようとしなかった。
毎回餌をやる度に、何とかしろ、どうにも無理です、の応酬で大騒ぎとなり、とうとうある日、どういう訳だか梟が頑丈な籠から抜け出してどこかに逃げて行ってしまった。
いくら探しても梟は見つからずハインリッヒは呆然とした。しかし結局、犯人は不明のまま、ということになり、ハインリッヒも諦めたので、家の者は皆ほっとした。
美津も皆も、笑いを堪えるのにとてつもない努力が要ったものだった。

ハインリッヒは体格が良く背が高く、上品で垢抜けていて、何を着てもよく似合ったが、それなのに着るものには無関心で、もったいないことこの上無かった。
たとえ礼服を着ているときでも、気が向けばどこへでも歩き回ってズボンの裾やエナメル靴を泥だらけにした。
毎日律儀にアイロンをかけさせるくせに、よく足を組んで床に座り込み、子供達の目線の高さで一緒になって遊ぶので、すぐにズボンを汚して皺くちゃにしてしまい、バービックをがっかりさせた。後には美津がそういう時には狩猟用のスポーツタイプのズボンを夫に穿かせるようにしていた。
人に会うときは紳士のたしなみに欠けるすき無くいつもきっちりしていたが、それ以外では、ヨーロッパのファッション・センスなど持ち合わせていないアルメニア人のバービックの選んだ服を平気で着ていた。ヨーロッパに行ってからは、美津が選んだ方がまだましだった。
新しい服を買っても、すぐ汚すのでもったいないと服を管理していたバービックに言われてなかなかすぐには着させてもらえず、クローゼットの中に放置されたまま流行遅れになってしまうことがよくあった。
綺麗好きで生活はスタイリッシュだったというハインリッヒが俗事の一面においてはこうなのだからおかしなもので、男子たる者着る物などにこだわるべきではない、とこだわっていたのかもしれないが、綺麗な手をしていて爪は常に磨かれていたというから、そんな僅かに柔弱な面を覗かせてしまうところは可愛気のあるものである。

ハインリッヒはイギリスおたくで、イギリス風の文化や流儀にはまっていたので、自分の名前もハインリッヒというドイツ語風の呼び方よりも英語風のヘンリーや母親の言葉であるフランス語風のアンリと呼ばれる方を好んでいて、自分でもよくそう署名をしていた。
美津は内心ではハインリッヒという響きの方が一番美しくて好みなのにと思っていたが。
タバコ中毒のヘビー・スモーカーで、常に葉巻やパイプを持って口にしていた。
たしなめられても、お棺に入るまではやめられない、と一生死ぬまで吸い続けていた。
それでもスポーツマンで、よく鍛錬された筋肉質であったので、見た目の上は全く健康そうなのだった。
自分の健康には構わなかったが、家族の健康のことはとことん気にして、狂ったようになる程だった。
まだ赤ん坊だった子供が病気になると、ハインリッヒまで心配のあまり病んだようになってしまって、いつも「子供が一人病気になると病人が二人になってしまう」ので、二人の病人を癒さなければならない美津は大変だった。
ハインリッヒは多少落ち着くと美津に、子供を愛しているなら何故もっと心配しないのか、と言って責めたが、美津は子供が幼い内は体調不良などよくあることだと分かっていたし、自分まで取り乱したらハインリッヒはもっと狂ってしまうだろうと思っていたので、そんなことでは叱られても気にしなかった。
愛情深いハインリッヒは、尋常ではない子煩悩で、妻と子供が全てであった。
美津に子供ができたときは狂喜して側を離れようとせず、子供が生まれると美津に頬ずりをして礼を述べ身も世も無く涙を流す有様は、美津や他の人々まで泣かせてしまったものだった。

以上の様に、ハインリッヒという人は、弱点さえも魅力的に見せることのできてしまう男であった。
決して完全では無かったが、むしろそれさえも含めて完璧なキャラクターであったのだ。
たとえ美津が彼と知り合うまでは西洋風の男の魅力を理解する能力を培う可能性に乏しかった無知で狭い世界の住人であったとしても、ハインリッヒを知った女が何かを感じるようにならないはずが無かったのである。

←前章に戻る 目次に戻る 次章に進む→
FXプライム口座開設