千国一国物語~行末~
【リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー】

僕はヨーロッパに帰還してから、ロンスペルクの恐ろしい状況を知り、身内の消息を探り始めた。
戦後の混乱とパン・ヨーロッパ運動の忙しさの合間のことであった為、捜索は難航したが、兄弟達は辛うじて皆無事であることが分かった。
オルガを見つけた時、彼女はドイツの小さな町の病院に居た。
姉は収容所暮らしが堪え難く、体を壊して精神的にもかなり参っていた様だった。
粗末な慈善病院の、それでも一応個室が確保されていた病室へ僕が駆けつけた時、案内してくれた看護婦でもあるシスターは涙ぐんで僕に説明してくれた。
「お可哀想に、かなりひどい目に会わされたみたいで、ひどく混乱しておいででした。
今ではかなり落ち着いている時もありますけれど、それでもよく取り乱されて…。
今日も鎮静剤を処方したので、まだはっきりとはなさっていないかもしれません」
病室の前でシスターが辞し、僕がノックして一歩足を踏み入れると、ドアの向かいの壁の窓の方を向いてベッドに腰掛けている姉の後ろ姿が目に入った。
何かぶつぶつ言っているのを耳を澄ませて聞いてみると、幼い頃にうちでよく歌われていたボヘミアの民謡だった。
「姉上…」
何と声をかけていいのか分からず、ためらいがちにそう呼びかけた。
背後の人の気配が看護婦のものではないことを悟った姉は、ものすごい勢いで急にこちらを振り返った。
「ハインリッヒ…!」
姉はベッドから駆け下りて僕の方に飛んで来ると、力一杯僕の首に抱きついてきた。
やはりまだ朦朧としているのだろうか。しかし確かに、僕は髪の色は濃かったけれども、兄弟の中では一番パパによく似ていたのだ。
この時僕はパパが亡くなった時と同じ四十七歳になっていた。
「僕だよ、リヒャルトです、姉上」
僕はそう言ったが、それでも姉はひたすらパパの名前を呼び続けていた。とても強い力で僕の頭を引き寄せ、愛してると繰り返しながら唇に口付けた。
この時僕はようやく悟った。
今迄も姉を度を超したファザコンだとは思っていたが、その想いの正体は一人の男性に向けられたもっと深く熱く激しいものだったのだ。
一瞬の躊躇いの後、僕は意を決して姉の体を抱き締めた。
「私のオルガ、愛しているよ―――」
出来るだけパパの声に似せようと努めて言った。
そうして僕達はきつく抱き合ってお互いの顔中に激しくキスの雨を降らせた。
僕は最後まで覚悟していたが、しかし姉はそれ以上を求めようとはせず、やがてそっと体を離した。
「―――もう、大丈夫よ。ありがとう、リヒャルト…」
先程までとは違う、理性の戻った声だった。
まだ潤んではいたが、静かな深い光を宿した瞳で見つめられると、姉が今迄耐えてきた様々なことの重さが身に沁み、僕は何も言えなくなってしまった。
姉は痩せ細りすっかり人相が変わってしまっていた。肌の所々にはまだ治りきっていない傷の跡やうっすらとした痣の跡が残っている。
姉への虐待者達に対する怒りが激しく湧き起ってきた。
もしこの時、手元に銃があり彼らが目の前にいたとしたら、撃ち殺してしまわなかった自信が無い。
僕は生まれて初めて憎しみというものを理解した。
また、姉をこんな目に会わせた戦争を防げなかったことに自責の念と無力感が襲った。しかしすぐに、それでもやはり二度とこのような目に会う人間が現れないように、尚一層平和を目指す思いが強く湧き起り、僕は決意を新たにした。
病院を辞し家に戻った僕は、出迎えてくれたイダの顔を見るなり、子供の様に泣いてしまった。
初めはびっくりしていたイダだったが、やがて僕の頭を胸に抱きしめ、何も知らないイダは自分も涙ぐんで言った。
「可哀想なオルガ!余程ひどい目に会ったのね」
姉は果たしてあれで救われたのだろうか。
僕は不幸な姉が一番欲しかったものを与えてやりたかった。
何かを諦めて生きることは、何かを得る為に生きることよりも、遥かに難しいことなのだ。

僕は姉を引き取ろうとしたが、姉は一人で居たいと言った。
僕の僅かな支援と生活保護で暮らし、僕が見つけたアルテンシュタットの下宿に入ることを同意してくれたのは、ようやく老いてからだった。(*オルガはリヒャルトの没後四年経った一九七六年にそこで亡くなっている)


伯爵令嬢フロイラインオルガは上品な人でした。優しくて思いやりと忍耐力がありました。
一度、何故結婚しなかったのか尋ねたことがあります。好きな人は居たけれど、上手く行かなかったの、と言っていました。名前は知りません。決して言いませんでした」

【オルガの知人女性の談】


*        *        *        *        *        *


一九四六年にチャーチルがスイスのチューリヒでリヒャルトの名も挙げてヨーロッパ連合を提唱する演説を行うと、ヨーロッパには雨後の竹の子の様にヨーロッパ統一を謳う組織が各国に出現した。
一九四七年にはアメリカ国務長官マーシャルの経済復興計画プランによるアメリカのヨーロッパ支援の受け入れ機関として欧州経済協力機構(OEEC)が設けられる。
リヒャルトはチャーチルに期待をかけ、ヨーロッパ帰還以来、リヒャルトとチャーチル、そしてその義息であるダンカン・サンディスはよく協力し合っていたが、しかし次第に両者の間にある溝が明らかになりつつあった。
イギリスは自らがイニシアチヴを取って各国を取りまとめた連合体を望んではいたが、イギリスをも含んだ超国家的な共同体など望んではいなかったのだ。
イギリスが望んでいたのはヨーロッパ諸国の結集であり、統合では無かった。
そこでリヒャルトは一九四七年に独自にヨーロッパ各国の議員達を招集し、ヨーロッパ議員連盟を結成した。
チャーチルとサンディスの「ヨーロッパ連合運動」は、一九四八年の五月にオランダのハーグで各ヨーロッパ運動組織を招集した大会議を開催した。
この会議には直前にリヒャルトの方から連絡するまで招待は来なかったという。さらにリヒャルトが会場に送ったパン・ヨーロッパの旗は「紛失」により立てられず、会議が終わった後に「発見」されたという。
しかし、この会議ではリヒャルトが提唱していたヨーロッパ全体会議の結成が実現し、一九四九年に欧州評議会(CE)が設けられた。
リヒャルトの理想の実現への道が出来上がったのである。
後にはこの欧州評議会で、リヒャルトが提案したベートーベンの「歓喜の歌」が「ヨーロッパの歌」として採択され、現在のEUに至るまで欧州統合の象徴歌として受け継がれている。
一九五〇年にリヒャルトは、その年に設けられたヨーロッパ平和賞とでもいうべきシャルルマーニュ賞を贈呈され、第一回目の受賞者となる。
その授賞式は現在世界遺産となっているアーヘン大聖堂と市庁舎になっていたカール大帝シャルルマーニュの城で行われた。
城のバルコニーで演説を行ったリヒャルトは集会者達の熱烈な歓呼を受けたという。

その翌年、こうしてパン・ヨーロッパの実現の第一歩を見届けた後、イダ・ローランが亡くなった。
偉大な妻を亡くしたリヒャルトは、精神的支柱を失ってしまった。
ハインリッヒを亡くした時の美津と同じ状態に陥ってしまった訳である。
回想録にはこの時のことをこう記している。
「私はこれから、独りで人生の道を見出さねばならず、独りで判断を下さねばならなくなった」
「私の人生は破壊され、終わったかに思われた」
しかし、母と違ってリヒャルトは藁にすがることが叶ったようだ。
リヒャルトは一九五二年にはアレクサンドラ・フォン・ティーレ伯爵未亡人と再婚し、彼女が亡くなると一九六九年にメラニー・ベネツキー・ホフマンと再々婚している。
しかしやはり、イダはリヒャルトの幸運の女神であったようだ。
イダを亡くしてからのリヒャルトの活動は精彩を欠く。
パン・ヨーロッパ運動のある程度の成功とイダの死によって、引退しようかとまで思い詰めていたのだから無理も無いが、その後はパン・ヨーロッパも勢いを失って傍流へとやられてしまう。
歴史を学んでいただけに中世のヨーロッパにまで言及して古臭い懐古主義者と見られてしまったことや、政治経済だけでなく宗教的概念を持っていたこと、また、ヨーロッパ諸国が現実的な統合を模索していく中でリヒャルトのパン・ヨーロッパはあまりにも理想主義的であり、そして国家の後ろ盾が無かった為にかえってヨーロッパ統合の花形に返り咲くことはできなかったのである。
しかし、現在のEUに至るヨーロッパ統合の根底にはリヒャルトの思想があり、その源流は確かに彼のパン・ヨーロッパ運動に端を発するのである。
そのことを認める多くの人々にリヒャルトは讃えられた。
既述のシャルルマーニュ賞の他、一九六二年にはオーストリア共和国の大銀星勲章を授与されている。
母の国である日本には一九六七年と一九七〇年に招待されて二度訪問した。
一九六七年の訪日の際には昭和天皇御一家と謁見し、一九七〇年の訪日では勲一等瑞宝章を授与されている。
リヒャルトは何度もノーベル平和賞の候補に挙げられているが、結局それは実現しなかった。
リヒャルトはプライドが高く、また世界平和への貢献の自負もあっただけに悔しかったようである。

こうして父に劣らぬ豊かで波乱に満ちた人生を送ったリヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーは一九七二年にオーストリアのシュルンスで亡くなった。
多くの人間に水晶クリスタルのような清冽さと表現された魂を持ち、人間の仁愛と誠実を愚直な迄に信じて理想に邁進した男の生き様は、オーストリアと日本のみならず多くの人々にとってまぶしいものであるだろう。
パン・ヨーロッパ連合は彼の没後オットー大公に引き継がれた。

ハンスには子供が女子のマリーナ一人であった為、クーデンホーフ=カレルギー家の名跡は実質的にゲロルフの子供達が継いでいる。
ゲロルフと子供達は傾いてしまったクーデンホーフ=カレルギー家の身代をよく立て直した。
ゲロルフの直系の孫のドミニクは二〇〇九年にハプスブルクの血縁に連なるアーデルハイト・リヒテンシュタインと結婚している。ハプスブルク家の血統と一庶民の日本人の血統が接点を持ったことになる。
二〇一三年に生まれた夫妻の次女はタチアナ・マリア・ミツコ・ベネディクテ・ツィタと名付けられた。
因みに、ゲロルフの末息子でウィーン幻想派の画家として知られるミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギー画伯は、現在日本で日本人の妻君と共に暮らしている。
彼はあのヒトラーがついに入学できなかったウィーン美術アカデミーを首席で卒業した。
非常に文化的な形で敬愛する伯父リヒャルトの仇を討ったことになる訳である。
リヒャルトにはイダの年齢的なこともあってか子供は出来なかった。妻達の連れ子達を養子にしているが実子はいない。
しかし、「欧州統合の父」である彼の精神を受け継ぐ欧州連合(EU)は大きく育ち、困難を抱えつつも欧州統合の途上にある。二〇一二年にEUはノーベル平和賞を受賞した。
クーデンホーフ=カレルギー家の愛と夢は現在も世界規模で受け継がれている。


「友よ、認識の示す悲観を意思の示す楽観によって克服せよ!」

【日本大学の扉の銅板に記銘されたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーによる一文】

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