千国一国物語~終焉~
ボヘミア森の奥深く 私のおうちはありました
そこを離れて行ったのは 遥か昔の遠いこと
それでもいつでも忘れずに 思い出はっきりよみがえる
私の揺り籠ボヘミアの森 緑うるわしボヘミアの森
私の揺り籠ボヘミアの森 緑麗しボヘミアの森

ああもう二度とは戻れない 可愛いわらべのあの頃に
楽しく幸せ満ちていた 緑の野原のパパの家
祖国に一面広がった 草原思い出宿る場所
私の揺り籠ボヘミアの森 緑麗しボヘミアの森
私の揺り籠ボヘミアの森 緑麗しボヘミアの森

ああ主よ私にもう一度 見せて下さい故郷ふるさと
うましボヘミア振り返り 胸に喜び呼び起こす
おうちや森や谷や丘 心はあなたと居るまんま
私の揺り籠ボヘミアの森 緑麗しボヘミアの森
私の揺り籠ボヘミアの森 緑麗しボヘミアの森

【ボヘミア民謡】筆者訳


*        *        *        *        *        *


オーストリアを脱出してからも、リヒャルトは連合国の西ヨーロッパでパン・ヨーロッパの活動を続けた。
チェコスロヴァキアがドイツに併合されてしまったので、リヒャルトは新しい国籍を得る為にフランスに帰化を申請し認められた。パリではハプスブルクのカール一世の長男、オットー大公と知り合っている。
第二次世界大戦が始まってナチス・ドイツがフランスに迫ってくると、リヒャルトは再び亡命しなくてはいけなくなった。
リヒャルトははじめ、ナチス・ドイツに対するヨーロッパ勢力の最後の砦であったイギリスに亡命し、パン・ヨーロッパの協力者であったチャーチルのもとへ行くつもりであったが、途中、ポルトガルのリスボンで出会ったイギリス大使のセルビー卿にはアメリカに行くことを強く勧められた。
さすがにリヒャルトは不安になってしまった。
大英帝国はさすがにナチスに対してもよく粘って持ち堪えていたが、当時はそれでもかなり危なく見えていたのだ。
セルビー卿としては、リヒャルトにはアメリカで活動してもらった方がアメリカを引き込むのに有利であると考えたのかもしれない。
リヒャルトはとうとうヨーロッパを離れた。
当時ヨーロッパからアメリカへの脱出を図る人々は多く、アメリカは移民を制限したので、アメリカの査証を受けることは非常に困難だった。
リヒャルトは訪米時に懇意になっていたコロンビア大学総長のニコラス=マリー・バトラーに電報を打って助けを求めた。
バトラーは直ちにヴィザの発行の為に手を打ってくれ飛行機の席を三つ用意してくれた。
リヒャルトはどこへ行っても人の好意と献身を与えられる人間だった。やはりそれだけの魅力と人徳のある男であったのだろう。
リヒャルト一家は一九四〇年の八月三日、アメリカへと降り立った。
リヒャルトはアメリカでも活動を開始し、バトラーの提案によってニューヨーク大学で歴史講座を受け持ち、ニューヨーク大学を本拠としてパン・ヨーロッパを広めた。
イダにはハリウッドからも映画出演のオファーが集まったが、イダは夫の側を離れる気は無かったのでハリウッドへは行かなかった。
イダは流暢な英語を話したが、ネイティヴ・スピーカーでは無かったので、不自然な発音で自分の芸術を損なうことを怖れたのである。
それにまた、自分がそろそろ女優としてのピークを過ぎつつあることを悟っていたのだ。
イダは多大な努力で逆境にあるリヒャルトとパン・ヨーロッパ運動を支え続けた。
世慣れぬお坊ちゃまのリヒャルトを経験豊富で現実家のイダは有能でうってつけのパートナーとしてよく補佐し、二人は見事なハーモニーを奏でていた。

リヒャルトはアメリカでオットー大公と共にオーストリア亡命政府を作る構想も持っていた。
彼自身の理念と矛盾するような行動にも思えるが、当時イギリスにはヨーロッパの多くの国の亡命政府があったから、チャーチルの支援を取り付ける為にも自分にも後ろ盾となる政府が必要だと思ったのかもしれない。
一九四一年に、日本の真珠湾パール・ハーバー攻撃が行われる数日前にリヒャルトは母の死を知った。
リヒャルトは母の死に目に会って最期を看取ることが出来なかった。
不本意ながら捨ててしまった母であったが、本当は大好きなママの側に居たかったのだ。ここ数年はようやく和解できていたのに…。
リヒャルトはイダに取りすがって泣き崩れた。
真珠湾パール・ハーバー攻撃によって大戦に加わったアメリカの対日感情は最悪になり、リヒャルトは日本人の血を引く自分の身と活動について案じたが、父方の家名の威力か日系人扱いはされず、何ら抑圧されることは無かった。
アメリカの参戦によって戦局は次第に連合軍の有利に傾き、アメリカのヨーロッパに対する関心も高まった。
一九四三年四月にはニューヨークで第五回パン・ヨーロッパ大会が開催され、また八月にはチャーチルが世界的平和機構の樹立を世界に訴えたこともあり、パン・ヨーロッパ運動は盛り上がった。
ミッドウェー、エル・アラメイン、スターリングラードなどでの連合軍の勝利を経て大戦は転機を迎え、ノルマンディー上陸作戦によってついにヨーロッパはナチス・ドイツから解放され、一九四五年の四月三十日、アドルフ・ヒトラーは自殺した。
八月に日本に二つの原子爆弾が投下されると八月十五日に日本は降伏し、第二次世界大戦は終結した。
リヒャルトが懸念していた近代兵器の恐怖は、最悪の形で実現してしまった。それも彼の半分の母国である日本においてである。
この時のリヒャルトの悲壮な顔を、イダは一生忘れられなかった。
アメリカの大統領であったルーズベルトはアメリカとソ連で戦後の世界の均衡を保つ構想を持っていて、パン・ヨーロッパには協力的では無かったが、一九四五年に彼が亡くなると、この時には次第にソ連がヨーロッパにおいて積極的に勢力圏を伸ばしてきたこともあって、後を継いだトルーマン大統領はパン・ヨーロッパに公然と支持を表明した。
パン・ヨーロッパは再び国家の支持を得てアメリカの国是となった。
挫折を余儀なくされ、満身創痍になりながらも、パン・ヨーロッパは生き残り、勝利した。
リヒャルトは一九四六年にヨーロッパへと帰還した。

第二次世界大戦が始まると、平和であったロンスペルクでも戦争の陰が覆った。
都会から疎開してくる人々、ドイツ軍人、収容所へ送られていく捕虜、そういった人々の姿が増えていった。
プラハのゲロルフは軍隊に招集され、父譲りの語学力の為に通訳官として務めた。
しかし、終戦の前年には、リヒャルトのアメリカでの反ナチス演説の為に弟のゲロルフは軍をクビになり、士官学校を出た息子のハンス・ハインリッヒも前線に遣られてしまった。
一九四五年の四月の末、とうとう米軍がロンスペルクに進出し、ハンスは城の塔に白旗を掲げた。
しかしドイツの武装SSはそれを下げさせて進退を思案していたが、米軍の攻撃によって東に引き上げて行ってしまった。
クーデンホーフ=カレルギー伯爵ハンスは再び塔に白旗を掲げ、ロンスペルク町長、神父、校長らと共に米軍のもとへ行き降伏の意を示した。ロンスペルクは米軍に占領された。
やがてチェコ兵がやってくるとハンスを含む町の有力者達は捕えられて厳しい統制の下に置かれたのである。
一九四五年にナチス・ドイツから国を取り戻したチェコ人は、報復としてドイツ系住民の財産没収と国外追放を開始した。チェコスロヴァキア国内のドイツ系住民は厳しい管理と制限を受け、少しでも逆らえば収容所行きだった。
ドイツ人に対する復讐は、ナチス・ドイツの迫害と同様に苛烈なものであったのだ。
ロンスペルクでもドイツ兵が拷問されたり殺されたりした。爪を剥され舌をテーブルに釘で打ちつけられて殺された者もいたという。婦女子に対する暴行も多発した。
十月になるとハンスもとうとう収容所に遣られてしまった。ハンスが連れて行かれると末日にはクーデンホーフ城にも兵隊がやって来た。
朝の四時に乱入してきた兵隊は、オルガとマリーナを強引に城から連れ出そうとした。
抵抗する二人にチェコ兵は手荒な真似も辞さない態度を示した。
「わたくしとマリーナは伯爵令嬢ですよ!無礼な真似は許しません!触らないで!」
まだ貴族の権威というものを信じていたオルガとは反対に、帝国没落後生まれの十七歳のマリーナは気色ばむチェコ兵を見て怯えてしまった。
「嫌…!何でもするから殺さないで!お願い、助けて!」
その様子を見たオルガとチェコ兵が同時に口を開いて言った。
「お止め、マリーナ!」
「こいつはいいや、とんだ伯爵令嬢様だぜ」
チェコ兵が嘲笑ってマリーナの腕を掴んで引き寄せようとするのを、オルガは引き戻して自分の背後に庇った。
怒ったチェコ兵が銃床でオルガを床に突き飛ばし、泥だらけの軍靴で蹴りつけるのを、今度はマリーナが駆け寄りオルガの上に覆いかぶさった。
「叔母様!」
「このアマ!」
この修羅場に米兵がやってきて場を取りなし、マリーナを城の外へと逃がしてくれた。
しかしオルガは最後まで城を離れまいと抵抗し続けた。
引きずられるように城の外へ連れ出されながら、オルガは高価な略奪品を求めて城を荒らす兵隊達に叫び続けた。
「やめて!これ以上うちを壊さないで!私とパパのお城を傷付けないで!ハインリッヒの思い出を消さないで!助けてリヒャルト!」
その日チェコ兵達に連れられて「とても取り乱し、ひどい有様で」駅に現れたオルガは列車で収容所に送られ、マリーナはその夜城下の少女達と合流し、彼女達に付いて共に逃げ出してドイツへと脱出した。
略奪され荒らされたロンスペルクの城には、その後、家族の誰も戻ることが出来なかった。

ハンスはナチのシンパであった為、収容所では辛い目に会わされた。首に縄を付けて引きずり回されたこともあるらしい。餓死寸前にまで追い詰められて、小太りであったのがげっそりやつれてしまったという。
ヨーロッパに戻ったリヒャルトはハンスの苦境を知り、チェコスロヴァキア大統領のベネシュに兄の釈放を乞う手紙を書いたが、これは聞き届けられなかった。
この時ハンスを助けたのはバービックの曾孫のニサンであった。
考古学の博士であった彼はエジプト大使館とも親交があり、ハンスの為にエジプトのパスポートを調達した。
ニサンの尽力によって「エジプト人」となったハンスは収容所を出ることが出来たのである。
バービックを助けたハインリッヒの子孫を、今度はバービックの子孫が救った訳である。
ハンスはドイツへ脱出して再びドイツ人になった。レーゲンスブルクで暮らし、一九六〇年にリリーと離婚して一九六三年にレーゲンスブルク劇場のクローク係のウルズラ・グロッシュと再婚した。
財産を失って生活保護を受けていた彼はとても貧しかったという。一九六五年に亡くなったが、墓の管理費が続かずその後解消されてしまった。
これがロンスペルクにおける最後のクーデンホーフ伯爵の末路であった。
マリーナはドイツの難民キャンプで二年程暮らした後、父の消息を掴んでレーゲンスブルクへ行き、通訳の学校に通ってアメリカへ渡り文筆家となった。
リリーは一九七五年の三月にスイスで亡くなったが、マリーナは母親の葬式にも行かなかった。

軍隊をクビになってプラハの自宅にいたゲロルフは、一九四五年の五月に警察への出頭命令を受けた。
警察署に行くと市電の車庫に連れて行かれて他のドイツ人達と共に収容され、やがて彼の妻子も連れてこられた。
彼らは自宅に戻ることは許されず、チェコスロヴァキアを追放された。
しかし西へ引き上げるドイツ軍に随行することが許されていたので、ゲロルフはそれに付いて行くことにした。
ゲロルフ一家はドイツのバイエルンを経てさらにオーストリアへと向かった。
ザルツブルクでは軍を除隊されて家族を追いかけてきたハンス・ハインリッヒと再会することが出来たが、元ドイツ軍の少尉であったゲロルフは米軍に逮捕され、収容所へ遣られてしまった。
しかしリヒャルトのせいで軍をクビになったことが今度はかえって有利に働いたのか、しばらくすると釈放されて収容所から出ることが出来たのである。ゲロルフは収容所で米軍の本を借りて囚人達に法学の講義を行っていたという。
収容所を出た後はグラーツに行き、グラーツ大学で日本語の教授になった。後には息子の援助で日本を訪れ、一九七八年にロンドンで亡くなった。
ゲロルフは美津の子供達の内で、最も日本を理解した息子であった。

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