千国一国物語~追憶~
【オルガ・クーデンホーフ=カレルギー】

父を崇拝し敬愛する人々の間に生まれ育った私は、物心がついた頃には当然の様にその一員になっていた。
あの頃の私達は皆、心の中に共通の辞書を持っていて、その辞書の「絶対」とか「完璧」という言葉の項目には「父のこと」という説明が記されていたのだ。
幼い子供にとっては誰しも親とはそういうものなのだろうが、思い出補正を除いても、大人になった今でさえ、私は父程賢く、美しく、優しい人間にお目にかかったことが無い。
ギリシア神話の人間くさい神々に比べれば、父の方がまだしも神格を備えているように見えたくらいだ。
私達家族は皆、事あるごとに父の寵を奪い合い、父への信奉を競い合ったものだった。
余りにも素晴らし過ぎた父は、私に崇拝と敬愛の念以上のものを抱かせてしまった。
父の蜜の滴るような美貌と匂い立つような男の色香は、思春期を迎えた私の魂を激しく揺さぶり、その威厳に満ちたたくましさと成熟した男らしさは、ようやく女の片鱗を見せ始めたばかりの小娘だった私の心を虜にしてしまったのだ。
この世で最高の男が自分の決して手の届かぬ所に存在している―――。
このがたい真実は、私の精神を絶望的に狂わせた。
お休みやお早う、ただいまやお帰りといった何気ない挨拶のキスやハグ―――そんな当たり前の家族のスキンシップさえ、父と交わす時は肌がぞくりとするような感覚を味わった。
後になってからは、感じていることが表に現れてしまうのではないかと怖れて、あまり深い触れ合いは出来なくなってしまった程だ。
父は私をとても可愛がってくれたが―――多分、出来の悪い子ほど可愛いということだったのだろう―――、もし私が実の父親に懸想しているような倒錯者だと知ったら、どう思ったことだろう…。
十四歳の時、初めて父と体で愛を交わす夢を見た。
飛び起きた私は弾む鼓動や熱っぽく火照っている体を鎮めようと喘ぐように深呼吸し、今迄触れたことも無かったのに、今、夜着の下で強く存在を主張している場所に指を伸ばした。
柔らかい肉が指先に掬い取れるほどこぼれる蜜で濡れていた。
この時、私はもうこれ以上自分自身には嘘を付けないことを悟った。本当はもうとっくに気付いていたのに認めたくなかっただけかもしれない。
その夜は恐ろしさと恥ずかしさに泣きながら、床の中で自分の体を抱き締めて一晩中神に許しを乞うていた。
しかし慣れとは恐ろしいもので、我慢しきれずに昼に父と交わした触れ合いを夜に思い起こしては彼の匂いや肌触りの記憶で自分を慰めるようになると、重くのしかかるようだった罪悪感も次第に擦り減らされてゆき、父の裸など見たことも無いのによくあんな夢を見たものだと笑ってしまう余裕さえ生まれた。
彼が亡くなった時には、もうその罪の回数は数え切れないほどになっていた。こっそり父のハンカチを盗んだことさえある。
私の心の中で呼びかける彼は、既に「パパ」ではなく「私の愛しいハインリッヒ」だった。
愛しいハインリッヒはあまりにも早く、あっけなく亡くなってしまった。
ハインリッヒの死によってあのフランス女のことが明るみに出た時、涙を流していた私のことを、きっとバービックや周りの家族は思春期の多感な少女が父親の過去のロマンスにショックを受けたせいだろうと思っていただろうが、実の所私は、若い頃の父に愛された女に対して、母がしていた以上に嫉妬していたのだ。
私の片想いの絶頂に、若く美しいまま亡くなってしまった父は、もはや私の心の中の払拭しえぬ偶像、永遠の男性になってしまった。
神のような父が亡くなった後、一時いっとき我が家は地獄の様だった。
我々の魂の宇宙における太陽だった父を亡くし、その光と引力を失った家族はバラバラになって虚空の闇を彷徨った。

父の死後、我が家も世界も戦争になってしまった。
母はリリーとそりが合わず、シュトッカウで暮らしていたが、戦後、貴族はかなりの財産を没収され、シュトッカウも取り上げられてしまったので、母と私はメイドリンクの邸宅に引っ越した。
母は長男の嫁とも次男の嫁とも上手くいかなかったが、ロルフィー(*ゲロルフの愛称)だけは一九二五年にハンガリー貴族の娘のソフィー・パルフィーと「真っ当な」結婚をして問題の無い結婚生活を送った。
孝行者のロルフィーは大学を卒業後、プラハの日本公使館に就職して日本語も学び、母を喜ばせた。
しかし母はそのロルフィーの結婚式にも病気を口実に出席しなかった。どうしてもリリーやイダと顔を合わせたくなかったのだ。結局、勘当されているディッキー(*リヒャルトの愛称)夫婦は来られなかったが。
母は娘達にも結婚しろとよく言っていたが、私とエルザ(*エリザベートの愛称)は一生結婚しなかった。エルザは私のような倒錯者では無かっただろうが、真っ当なファザコンではあったのだろう。ハインリッヒのような父を持った私達にとって、結婚など悪い冗談でしかなかったのだ。
たまに、エルザにだけは、何となく私の心を見抜かれていたのではないかというような気がする。
賢いエルザは家にはとうに見切りをつけて出て行ってしまい、大学で二つも博士号を取った後、新しいオーストリア共和国で首相のドルフスの秘書を務める有能なキャリア・ウーマンとなった。
母は心労が重なったせいでもあろうか、ロルフィーが結婚してしばらく経った頃、卒中を起こして半身不随になってしまった。右半身がほとんど利かなくなり、歩行に杖が必要になった。
他の子達と違って目立った能も無く仕事もしていなかった私は、母に付き添って面倒を見ることにした。母は私を手放せなくなってしまい、もう結婚しろとは言わなくなった。
他人は、結婚もせず母の世話をしていた私を可哀相だと思っていただろうが、私にとってはむしろありがたかったのだ。
母はこうしてメイドリンクで世間を離れた静かな生活を送って余生を過ごした。
結局、母は日本に帰ることは無かったのである。
ここ数年、子供達は皆成長して戦争も終わり、日本に帰る機会はあったが、卒中を起こす前から既に母は日本に帰ることを恐れるようになっていた。
一九二三年に関東大震災が起こり、その災害によってたった一人残っていた顔見知りの身内である姉を失ってしまい、母は日本で家族と呼べる人間を皆失ってしまった。
さらに公使館からもらっていた新聞雑誌や噂によって日本が昔とは大きく様変わりしていることも知っていた。
母があれ程望郷の念を募らせていた「明治の日本」はもうどこにも無くなってしまっていたのだ。こうして母はメイドリンクに隠居して、母の頭の中にしか存在しなくなってしまった日本のことを思いながら、ディッキーに言わせれば「植物のような生活」を送っていた。

ロルフィーの結婚の翌年、ハンス・ハインリッヒという男の児が生まれ、さらにその次の年にはようやくハンシー(*ハンスの愛称)夫婦に子供ができた。マリーナという女の児だった。
ロルフィーはその後さらに三人の子を設け四児の父親となる。
そういうおめでたもあって、私は久しぶりにロンスペルクに戻ったことがあるが、城の様子は変わってしまっていた。
ハンスはミイラの人形棺からヒントを得たという自分の姿を形取った巨像を構えにした暖炉を作って悦に入り、リリーは天井にけばけばしいトランプの絵を描いたカードゲームの部屋をこしらえていた。
何という馬鹿馬鹿しい悪趣味だろう!
父が居た頃の厳粛さや格調の高さというものが冒涜的に損なわれている。
ハインリッヒの面影が残る美しかった城をこんな風に穢すとは!
この時ばかりは大人しい私も激怒したが、自分の城についてとやかく言われる筋合いはないと、ハンスやリリーは全く耳を貸さなかった。
私が城を出て母と一緒に暮らしていたのは、こういうことにも理由があった。
子供達を立派に育て上げ、母親としての責任を果たし終えた母は、思い出を私に口述筆記などさせて昔の日本のことを懐かしみながらひっそりと暮らしていてあまり人に会いたがらなかったが、それでも時折日本人が訪ねて来ると、古き良き日本を偲ばせてくれる人々には愛想よく相手をしていた。
特に一九三一年にウィーンを訪れた高松宮殿下に謁見することになった時には、杖をついて帝国ホテルを訪れ、若き日の思い出を嬉しそうに語り、私にも手記を口述筆記させていた。母の生涯最後の栄光ある「日本」の思い出になっただろう。
その翌年には竹久夢二という画家も訪ねて来た。
美しい美人画を描く画家だったが、初老の母のことも写生していた。(*この時の絵は第二次世界大戦中に失われたようである)
ディッキーの「パン・ヨーロッパ」がヨーロッパを越えて世界中に広まると、日本人の母を持っていることもあって日本でも新聞や雑誌で紹介されるようになった。
息子の活躍は母の耳にも届くようになり、母は「パン・ヨーロッパの母」として讃えられるようになった。
母は訳も分からず息子の活躍を喜んで、ここに至ってようやく母と息子は約十年ぶりに再会を果たして和解した。
母はイダのことは結局許さずじまいだったが、ディッキーのことは「うちのパン・オイローパ(*パン・ヨーロッパのドイツ語読み)」と誇らしげに呼ぶようになり、ちょくちょく顔を合わせるようになったのだ。
正直、私にも難しい政治理念などは分からなかったが、それでも一つだけ分かったことがある。パン・ヨーロッパ―――これはハインリッヒの思想・・・・・・・・・だ。
世界の融和と平和を目指していた父が生きていたなら、きっと同じようなことを考えたに違いない。
ディッキーは兄弟の中では一番父の影響を受けていた。父の志を継ぐ、という生き方以外、ディッキーには他の選択肢などあり得なかったのだ。
ディッキーはハインリッヒになりたかったのだ。

母が亡くなる前に母子の再会は叶ったが、しかし、やがてはディッキーと再び別れなくてはならなかった。
ナチスの影が迫っていたのだ。
エルザがドルフスの暗殺後パリに亡命し、ディッキーもオーストリアを追われてスイスに亡命した。
ディッキーは戦争が終わるまで私達に接触してこなかった。ナチのシンパとなった兄弟達との間に溝が出来ていたし、立場の違ってしまった兄弟達に自分との関係が迷惑をかけることを悪いと思っていたのだ。
エルザは一九三七年に脳膜炎にかかって亡くなってしまい、彼女の遺産は、兄弟で話し合って、一番経済的に恵まれていなかったロルフィーに譲られることになった。
ナチス・ドイツはオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアをも手中に収めた。
ハンシーは―――というよりドイツ系住民は―――「ドイツ人」になりたかったのでナチスを受け入れ、またユダヤ人の妻や家族を守る為にナチスのシンパになっていた。
そのせいでもあろうか、ハンシーとリリーは次第に不仲になり、ナチスが迫るとリリーは娘を連れてさっさとローマに避難してしまった。
ハンシーは新しい塔を建てて毎日そこに上がっていたが、城下の人々は「クーデンホーフの殿様はそれ程早くナチスを見とうござらっしゃるか」と笑っていた。
ユダヤ人の嫁や反ナチス的な政治活動家の息子を持ってはいたが、それでも母は安全だった。
ドイツの同盟国である日本の老婦人に危害を加えることは得策では無かったし、日独同盟の功労者である大島駐独大使が何かとナチスにとりなし保護してくれた。
母は日本人として生まれ、オーストリア人として嫁ぎ、チェコスロヴァキア人として老いて、ドイツ人として亡くなった。
一九四一年に、日本がハワイの真珠湾パール・ハーバーを攻撃して太平洋戦争が始まる四ヶ月前の夏に、母は二度目の卒中を起こして亡くなった。
母国が戦争に突入したことを知らずに逝けたのは幸いだっただろう。
六十三年の母の人生を思うとき、これ程特殊な人生を思いもかけずに歩んだ女性の気持ちというのは、私などにはとても想像できないものだ。
人の人生は皆独特で同じものは一つとして無く、それ故に幸も不幸も喜びも悲しみも、あらゆることを超越しているのだと母を見ていて尽く尽く感じる。
そして、国とは、人種とは何なのだろうかと思わずにはいられない。きっとディッキーもそう思ったに違いないのだ。
母は全ての人が皆違っていて、そして全ての人が共存できることを、意図せざるながらも身を以て示して生きた。
確かに彼女は「パン・ヨーロッパの母」だった。
母は生前、自分が死んだら洗礼式の時のヴェールを被せ、棺を日本国旗に包んでハインリッヒの隣に葬ってほしいと遺言していた。しかし結局、夏の暑さの為に遺体をロンスペルクまで運ぶことはできなかった。
母はクーデンホーフ家の墓所があるヒーツィングに葬られた。
ハンスは結局リリーと別居してマリーナを引き取った。リリーは人に好かれる女では無かった。娘にさえ好かれていなかったのだ。
ハンシーに「娘を育てるのに女手が必要なんだ」と言われたし、私はメイドリンクの邸宅を管理人に任せて再びロンスペルクへ戻った。


「わたくしはいつも仮面舞踏会に出ているような気がします。
お前達はいつも、着飾ったり違う服を着ても後でそれを脱げるけれど、わたくしには脱ぐことは出来ないのですよ」

【美津がオルガに語ったこと】

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