千国一国物語~波乱~
「クーデンホーフ=カレルギー伯は私が会ったことのある、もっとも素晴らしい立派な人間の一人である。
人も知るように、半ば日本人、他の半ばはヨーロッパの国際的な貴族の血を受けている彼は、非常に魅力に富んだ上流階級の、ユーラシア的なタイプの人間を現している。
彼の言葉にも、その態度にも、一つの政治的思想に対する揺るがざる信念が現れている。
彼はこの思想を、文章をもって、演説によって、力強く世に訴え、宣伝した。
新しい社会のこのような、時流に一歩を先んじた、立派な、民主的な尖端的人物、生来大陸的な考え方の人物が自分自身の理性の判断によって一つの世界を形成しようとして、みずから敢えてその任に当たることほど人を感動させるものは無い」

【ドイツのノーベル賞作家トーマス・マンによるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー評】


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リヒャルトは「パン・ヨーロッパ」思想を幾つかの新聞で発表してみたが、反響は少なかった。協力してくれる政治家なども探してみたが、反応は薄かった。
幾ら頭が良かろうと、戦争に行ったことも無い坊ん坊ん貴族が書いた戦争と平和論など絵本に等しかったのだ。偉大な父と妻に大事にされてぬくぬくと育った天使のような顔をした若者が唱える「ぼくがかんがえたちきゅうがへいわになるほうほう」など、ギムナジウムの作文コンクールででも発表してほしい、といったところであっただろう。
誰もがパン・ヨーロッパを夢だと思った。しかし、リヒャルトは自分を夢想家では無く理想家であると信じていた。
歴史上、理想が実現した例は幾つもある。チェコ人やポーランド人や共産主義者にできたことが、パン・ヨーロッパにできない理由がどこにあるだろう。
因みに、大戦に懲りて平和を望む人々は多く、一九二三年には国際連盟も設立されてはいたが、これも結局各国のエゴがはびこり、不参加の大国も幾つか有り、実力を伴わない不完全なものだったので、リヒャルトにはあまり魅力的なものではなかった。
リヒャルトは諦めなかった。
そしてこの時もまた、イダが何とかしてくれた。
イダはリヒャルトがパン・ヨーロッパの本を出版する為に出版社を立ち上げる資金を出してくれたのである。
パン・ヨーロッパの創始者が、夫を養って勉強させ、その思想を広める為に出版社を立ててやれる妻を持ち合わせていたことは、歴史の幸運というべきだろうか。
イダはまた、女優として鋭い言語感覚を持っており、ともすればインテリ特有の難解な文章になりがちなリヒャルトの本をチェックして、多数の人々に理解しやすい平易な言葉に改めてくれた。
一九二四年にリヒャルトは「パン・ヨーロッパ」を出版してその思想を世に公表した。
「パン・ヨーロッパ」は十万部を超えるベストセラーとなり、パン・ヨーロッパ運動には参加者が膨れ上がった。
ハンブルクの銀行家マックス・ワールブルクが、パン・ヨーロッパ運動の支度金として六万マルクもの資金を提供してくれた。
オーストリア政府もパン・ヨーロッパに賛同してくれ、ウィーンのホーフブルク旧王宮内にパン・ヨーロッパの本部事務所を貸与してくれた。
「パン・ヨーロッパ」は様々な国の言語に翻訳され―――ファシズムのイタリアと共産主義のロシアを除いてだが―――、リヒャルトはヨーロッパの各国を訪問して支持者を募った。
アメリカにも、パン・ヨーロッパがアメリカに対立するものではないことを説く為に訪れ、好感をもって迎えられた。
パン・ヨーロッパの支持者の中には、トーマス・マン、リルケ、アインシュタイン、フロイト、バーナード・ショー、H・G・ウェルズなどの著名人がいたのである。
一九二七年にはウィーンで第一回パン・ヨーロッパ大会が開かれた。
この大会には、二十四ヶ国を代表する二千人のヨーロッパ人が参加したのである。
アメリカから戻ったリヒャルトはフランスの外相アリスティード・ブリアンと知己を得る。
ブリアンは平和的な政治家として活躍し、後にドイツの外務大臣シュトレーゼマンと共にノーベル平和賞を受賞する声望家であった。
彼はパン・ヨーロッパ運動に大いに共鳴し、一九二八年にはパン・ヨーロッパ連盟の名誉総裁の座を引き受けてくれたのである。
一九二九年に、ブリアンはフランスの外相兼首相となった。パン・ヨーロッパはフランスの国是となったのである。
そしてその年の国際連盟の総会で、ブリアンとシュトレーゼマンはパン・ヨーロッパを提唱し、パン・ヨーロッパ準備委員会のようなものまで設けられた。
パン・ヨーロッパは国家政府レベルにまで発展し、順調に成功への道を歩んでいるように見えた。
リヒャルトにとって政治というのは義務だった。
パン・ヨーロッパを生み出し、世界中を飛び回って国際的に通用する政治思想として確立し、その義務を果たしたように見える今、パン・ヨーロッパの実際的な活動は本職の政治家に任せて世間知らずの自分は退き、再び学究の徒に戻ることをリヒャルトは望んでいたのだ。
一九三一年には、スイスの美しい田舎の大きな農家を買って改築したりもしている。
しかしあっという間に状況は変わってしまった。
一九二九年にアメリカを発端に世界大恐慌が起こり、世界的な大不況はドイツにおいてナチスを生んだ。
総会の後間もなくシュトレーゼマンは亡くなってしまい、一九三二年にはブリアンも没してしまった。
各国経済がブロックによる自給自足に切り替えられ、経済的統合は遠のいた。
リヒャルトの掲げた希望は第二次世界大戦を防げなかった。

第一次世界大戦後の大インフレに続き、大恐慌でドイツは異常な状況に陥った。
ヴェルサイユ体制の打破を渇望する国民の狂気めいた右傾化とヒトラーの魔力めいた演説能力と人心掌握術によってナチスは劇的に勢力を伸張させ、一九三二年には第一党にまでなりおおせた。
翌一九三三年にはヒトラーは首相となり、他党を弾圧し解散させて独裁権を握ると、一九三四年には大統領と首相を一体化させた「総統フューラー」の座に就いたのである。
その年、オーストリアではオーストリア・ナチスのクーデターによって首相のドルフスが暗殺された。彼の秘書であったリヒャルトの妹エリザベートはこの後フランスのパリに亡命している。
ヒトラーは反ユダヤ主義者で、貴族やインテリを嫌い、フリーメイソンを敵視していて、それだけでもリヒャルトが憎まれるには十分だったが、何より国粋主義の極みであるナチスとパン・ヨーロッパは相容れないものであったから、ナチスに反対していたリヒャルトも狙われて幾度か爆弾テロや暗殺の危険にさらされた。
ヒトラーは著書の「続・我が闘争」の中でリヒャルトのことを「全世界的はみ出し者の雑種」と罵っている。
ナチス・ドイツは一九三三年に国際連盟を脱退し、再軍備を宣言して大ドイツ主義を実現させるべく領土の「回復」を開始した。
そうして、一九三八年には、ついにナチス・ドイツはオーストリアを併合したのである。
一九三八年三月一一日、リヒャルトは正体不明の相手から電話を受けた。
オーストリア政府にナチスの内閣が立てられた。ナチス・ドイツはオーストリアを併合する。もうすぐ迫ってくるだろう。秘密警察ゲシュタポはあなたも狙っている―――と。
一刻の猶予も無かった。
イダの連れ子の娘のエリカは、既にスイスに避難させてあった。
リヒャルトとイダは取るものも取りあえず家を飛び出した。
リヒャルトはまずチェコスロヴァキア公使館に行こうとした。しかし既にその道はハーケンクロイツの旗を持った人々が群がっていた。そこでスイス公使館へと方向を変えて向かい、その夜、スイス公使館の車を借りてチェコスロヴァキアへの脱出を試みた。
だがその前にオーストリア人の運転手のパスポートを取りに彼の家に立ち寄らなければいけなかった。リヒャルトとイダはどちらも車の運転ができなかったのだ。
ウィーンには既にナチスが溢れていて、運転手の家の側で彼がパスポートを取りに行っている間、夫妻の乗っていた車はゴム棒を持った二十人ほどの若いナチスに取り囲まれた。
リヒャルトは思わずイダの手を握り、心の中で亡父に祈った。
―――パパ、どうか僕とイダを護って下さい…!
ナチスは夫妻の乗っているスイス公使館の車を見て、リヒャルトをスイスの外交官だと思ったようだ。人間達よりも二人が連れていた犬のサッシャの方に目を付けて、その頭を撫でながら「ハイル・スイス!」と言って笑った。
数分後に運転手が戻り車を出すと、三十分後には夫妻はオーストリアを無事脱出した。
リヒャルトはハンガリー・ユーゴスラヴィア・イタリアを経てスイスへ入った。リヒャルトはイタリアのムッソリーニにも接触してパン・ヨーロッパを説いていたので、イタリアを通過する際には彼に便宜を図ってもらえた。
正に危機一髪の逃避行であった。リヒャルトはヒトラーの魔の手を逃れた。
電話で危機を知らせてくれた恩人は一体誰であったのか、それは終生判らなかった。

ナチスが立てたオーストリア首相のザイス・インクヴァルトは旧王宮ホーフブルクのパン・ヨーロッパ本部事務所を接収し、膨大な数のパン・ヨーロッパの書物や文書を手に入れ破棄した。
しかし最も重要な書類は既にリヒャルトの邸宅に保管されていたのである。
リヒャルトの邸宅も家宅捜索され封印されたが、リヒャルトは知人のスイス公使令嬢がウィーンに行く時に伝言をしてもらい、邸宅に残っていたベルタという女中にその秘密文書をこっそり焼かせた。
さらに、ベルタとパン・ヨーロッパ事務所の使用人であったブーディクは、リヒャルトの邸宅の一階と二階を結ぶ食事運搬用の小さなエレベーターを利用して密かに貴重品を外に持ち出し、リヒャルトに送り届けたのだった。
ナチスの宣伝担当相ゲッペルスは、リヒャルトに対する公開処刑の宣告をウィーンの新聞に発表したが、パン・ヨーロッパ運動の規模を鑑みて封殺の方向に方針を変え、パン・ヨーロッパ運動の自然消滅を狙った。
戦争が終わる迄、リヒャルトはナチスに殺されたと思っていた人間も多かったから、これは一時的には効果があった。
だがリヒャルトは意外にしぶとかったのである。

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