雪の女王達(ハート)
美津は、ハインリッヒが亡くなると、ロンスペルクの城をバービックに任せ、子供達の教育の為にウィーンへ引っ越した。
自分ではハインリッヒのように子供達に教育できるはずも無かったし、都で最高の学校教育を受けさせようと思ったのだ。また、ウィーンには日本公使館があったから、少しでも日本を感じることができたのである。
この頃の美津にどれほどのプレッシャーがかかっていたのか、想像に余りある。美津はあのハインリッヒの後を継がなければいけなかったのである。
美津は仕事らしい仕事などほとんど経験が無く、喜八が店の帳簿をつけたり仕入れの確認をしたりするのを手伝ったことがあるくらいだった。
この頃の美津を、リヒャルトは「お姫様が専制君主に変わってしまった」と表現している。
不思議の国に迷い込んだ可憐なアリスは、横暴なハートの女王クイーン・オブ・ハーツに変わってしまった。
美津は猜疑心が強くなり、厳しく、容赦が無くなったという。
毎日書類や帳簿に目を通して領地の経営管理に気を抜くことなく、どんな小さなことも把握しようとした。
事務や経理の担当者達は、美津が疑問を抱いた時すぐに質問に答えられないと即クビになり、経営に自分が必要な人物であると思い上がるようになると、こういう者もまたクビになった。
美津は失敗も油断もできなくなった。
ハインリッヒのような先人の後を継いだ美津は、自分の能力を証明しなくてはいけなかったのである。
皆に可愛がられていた美津は、皆に恐れられるようになった。

ウィーンでハンスとリヒャルトは、「テレジア学院テレジアヌム」に入学し、オルガとエリザベートは「聖心女学院サクレ・クール」に入学した。
テレジアヌムは、マリア・テレジアが創設したいわば旧制高校で、貴族の子弟を育成する為の名門校だった。
そこには各国からの留学生がいて、ペルシア人や中国人の貴公子達もいた。
だから、クーデンホーフ家の少年達は、人種的な偏見や葛藤とは無縁でいられたのだ。
そこでは個人の資質と性質だけが、尊敬や友情といった人間関係を設定していた。
しかし、リヒャルトにとってはあまり楽しくなかったようだ。
ハインリッヒがしてくれた授業とは比べ物にならなかっただろう。それに、兄弟達以外の友達とあまり接したことのなかったリヒャルトは、余所の少年達には人見知りするタイプであった。
それでもリヒャルトは父によく似た優秀な美少年だったから人に好かれた。
美津とハインリッヒの子供達は皆頭が良かった。
五人の内三人までもが博士号を取り、特にエリザベートは、この時代において女性ながら二つも博士号を持つようになったのである。純粋に知能という点においては、リヒャルトをさえもしのいでいたであろう。
美津はヨーロッパで生まれた子供達を「ボヘミアっ子」と呼んで「区別」していた。
美津にとっては「年下組」というくらいのつもりであっただろうが、やはり祖国の日本で生まれた子供達に対する愛着が強かったのであろう。
「ボヘミアっ子」のエリザベートとゲロルフは、そういう母の内の無意識の「差別」を敏感に感じ取っていた。
エリザベートは、後にこの時期の家庭の様子を辛辣に述べている。
「うちに家庭の温かみが欠けている、という人がいると笑ってしまいます。その人はうちがどんなに変わったのかを知らないのです」。
ハインリッヒがいないと、残された家族はこういう有様だったのである。
賢いエリザベートは既に冷めたものの見方をしていたが、末っ子のゲロルフは幼い内に父を亡くしてしまい、ただ一人の親となってしまった母の美津を愛し、また愛されたいと願っていた。
子供達は父親の死後、失楽園を余儀なくされて、一気に近代人の大人にならざるを得なかった。
ユートピアで育った子供達にとっては、自分達の育った世界と乱世を迎えようとしている外の世界との違いは衝撃であったに違いない。
特にリヒャルトにとっては、世界が清くも正しくも美しくも無いことなど、理解もできなければ我慢もできなかったのである。
ユートピアを出たリヒャルトは世界に馴染めず、世界をユートピアに変えようとしたのであった。

ウィーンに来てしばらくすると、美津は人脈を作るために再び社交界に顔を出すようになり、すぐに美貌で魅惑の未亡人として人気になった。
もっとも、多分に物珍しさのせいでもあったであろうが。
社交界の人々は、何を考えているのか分からない東洋人の女をミステリアスでエキゾチックな美女と見てくれたのだ。
美津がただまごついてぼさっとつっ立っているだけでも、「憂愁の陰を帯びて佇む美貌の未亡人」と取ってもらえた。
しかし日本人特有の他人に対する愛想や洗練された美意識と、ハインリッヒに仕込まれて身に付いた西洋式の優雅さと気品は、美津に独特の魅力を添え、ちやほやされるだけの華のある貴婦人になっていたのだろう。
この頃には審理も終わり領地の経営にも多少は慣れ、大分気が楽になっていたのかもしれない。
リヒャルトはこの頃の美津を「とても楽しそうで、伝統的な日本人とはあまり似ていなくなった」と語っている。
この頃の美津は他人にヨーロッパと日本のハーフではないかと思われる程ヨーロッパ社会に馴染んでいたのだ。
しかし、それもあまり長くは続かなかった。数年後には第一次世界大戦が起こり、日本とオーストリアは敵同士になってしまったのである。
また、一九一六年にはつねが、その翌年には喜八がこの世を去ってしまったのである。
美津は勘が鋭く、この時の日本からの手紙をすぐに父親の訃報であると悟ったという。美津は老いた両親の死の知らせをいつも恐れていたのであった。

美津は喜八が亡くなる前に再婚の相談をしていた。
熱愛していたカップルは、相手を失った後すぐに次の相手を求めることがよくあるという。失恋の傷を癒すには新しい恋をするのが最良の薬であるともいう。
愛する人を失った人間は、相手を愛していたら愛していただけ、その痛手は大きく、それを治さずにはいられないものらしい。
それに、やはり異国で女手一つで多くの子供達を育てることに対する不安と苦労もあり、日本的な家庭観を持つ美津にとっては、子供達には父親が必要であるものだった。
もちろん、ハインリッヒ程の男が見つかる訳も無いが、美津は社交界で好感を持てる男性がいなくも無かったらしい。
しかし、喜八の答えは「女は二夫に見えるべからず」というものだった。
意外にも、実は喜八は結構ハインリッヒのことをよく思っていたようだ。
美津がせっせと送っていた手紙によって、娘や孫が異国でも幸せに暮らしていることを婿に感謝するようになったのだろうか。
何を古臭いことを―――と美津は思ったが、考えてみれば、自分も昔はこういう人間だったのだ。
「大和撫子の本分を忘れるな」という皇后陛下のお言葉を、再び美津は思い出した。美津は本当に真面目で一途な女であった。
美津はやはりハインリッヒのことを一生忘れられそうにも無かった。それに、新しい愛を探そうとすればする程、ハインリッヒの素晴らしさを再認識してしまうだけだった。
また実際問題、アイドルとしてちやほやするだけならともかく、五人の子持ちの東洋人の女と再婚してくれる男など居はしなかったのである。
結局、美津は再婚を諦めた。
美津が再婚を考えたことは、子供達との関係を悪化させた。
子供達にしてみれば、美津が亡夫を忘れて浮かれているように見えたのかもしれない。
美津にとっては全て子供を思ってのことであり、結局は子持ちの為に再婚を諦めた。
子供達にとっては自分達が母にとって負担で邪魔な存在になっているように感じられたが、しかし、美津にしてみれば子供達の為に多大な犠牲と苦労を払って懸命に尽くしているつもりであったのだ。
こうした母子のすれ違いは、子供達が成長するにつれて大きくなり、溝は深くなっていってしまうのだった。

当時、美津達はウィーンの端の新しい街区に住んでいた。そこは綺麗な街区だったが、ウィーンのほぼ反対の端の街区は浮浪者達や貧民達なども集まる貧しい場所だった。
一九一七年にテレジアヌムを卒業してウィーン大学に通っていたリヒャルトは、学校からさほど離れていないそういう街区の貧民達を見かけることもあったかもしれない。
ふとした日にすれ違ったリヒャルトとそういう浮浪者の青年とを見比べる機会のあった人々は、両者の違いに注目したことだろう。
伯爵家の御曹子のリヒャルトは、夢を見ているような目をした絵のような美少年で、この世の全てを愛していたが、浮浪者の青年は薄汚れ、光の無い目をしていて、この世の全てを憎悪していた。
―――その青年の名はアドルフ・ヒトラーといった。
当時、画家を目指してウィーン美術アカデミーを受験する為にウィーンにやって来たヒトラーは、受験に失敗を繰り返して食い詰め、母親の財産を相続するまで数年間浮浪者施設にいたことがあったのである。

リヒャルトはウィーンでもう一人、自分の人生を左右する人物と出会っている。
当時のヨーロッパにおいて、フランスのサラ・ベルナールやイタリアのエレオノーラ・ドゥーゼと並んで三大名女優といわれたイダ・ローランその人だった。

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