科学者の恋愛時における
精神的熱エネルギー量の増加についての研究
プロジェクトが立ち上げられてから約三ヶ月半後、プロジェクトチームの主要メンバーは、テューリアン美術の諸々の研究のため、地球を訪れたテューリアンの宇宙船でジャイスターへと向かうことになった。
異星人エイリアンの宇宙船も、ハントにとってはすっかり飛行機並みの感覚になってしまったが、他のメンバー達にとってはやはりまだ物珍しいものであるらしく、きょろきょろと視線の落ち着かぬ一行は、大都会に来たおのぼりさんのツアー団体さながらだった。

荷積みもとっくに終わって連絡シャトルを引き揚げるのみという出発の間近になって事件は起こった。
チーム一行が談笑していると、地球人居留エリアの一角から何やら騒がしい様子が伝わってきた。
ハントはヴィザーに問うた。
  「何事なんだ、ヴィザー?」
「ああ、ヴィック。ちょっと困ったことになってしまったよ」
ヴィザーの説明を聞きながら、一行は現場へと駆けつけた。

宇宙船では何ジャックと言うのかは知らないが、とにかく船室の一つが地球人の十四歳の少年に奪われて、彼に占領されてしまったのだという。
何か深い事情とやらのある家出少年らしかった。
以前にテューリアン船に乗ったことのある外交官の親戚の少年で、そこから船の話を聞きつけてきたらしかった。
何でも「毎日身の置き所の無い辛い生活」というものを送っていた彼は、ジェヴレンへと家出することを思い立ったらしい。
最近の家出はスケールが大きいことだ、とハントは思った。
申請すれば誰でも乗せてくれるとはいえ、少年が一人で乗船を申請すれば、いくらテューリアンと言えども不審に思うに違いない。
そこで少年は密航を企てた。
と、言っても、そう難しい話ではない。
テューリアンには防犯警備という概念は無いのであるから、飛行機の搭乗時の身体検査程度のセキュリティ・システムもありはしないのだ。潜り込む手はいくらでもある。
要するに、誰かの連れのふりをして乗り込めば、疑う者などいなかった。
だが運の悪いことに、連絡シャトルに乗り込んだとき、偶然見送りの人々の中に知り合いがいて、姿を見られてしまっていたのだ。
不審に思った知り合いは少年の家族に連絡し、少年を探していた家族は警察に通報し、そこからテューリアン船は少年の保護要請を受けたのだった。
ところが少年は自作の超高圧レーザーガンなどというものを携帯しており、それを用いて威嚇しては抵抗した。
船室の一つに逃げ込んで電子ロックを焼き壊し、通話パネルやヴィザーへの接続チップなどのあらゆる通信手段を断って立てこもった。
「最近の中学校ではレーザーガンの作り方なんてものを教えるのかな?」
とぼけたハントに「まさか!」とワットがつっこんだ。
それ程の頭の良さと技術を持ちながら、なぜ彼は家出などしなくてはいけなかったのか。その才能で切り拓ける道もあったであろうに。ハント自身のように。

現場では電子ドアの前に地球人とテューリアンの小規模な人だかりができており、数人のテューリアンのクルーが彼らを遠ざけようと指導していた。ただしテューリアンに通じているハントたちは例外であったが。
一行とほぼ同時に船長のテューリアンが駆けつけてきて、改めていかなる手段でも電子ロックが作動しないことを確かめた。
ドアを無理やりこじ開けることは不可能ではなかったが、少年はレーザーガンを所持しているのに対し、テューリアン側は武器はおろか防犯装置さえ設備してはいなかった。
また下手に刺激すれば、ジェヴレンへも行けず、地球にも戻りたがらずに、行き場を失って絶望的に追い詰められた少年が自らの命を断ってしまう可能性も考えられた。
通信手段が断たれているので説得のしようも無く、自殺の恐れがあるので強行突破もできない。
いつまでも立てこもっている訳には行かないであろうから、少年が自ら出てくるのを待つしかないが、今の彼が精神的に不安定で何をしでかすのか分からないのが心配だ―――と船長は苦りきった様子で述べた。
考えてみれば、いつかはこういう事態が起こらないはずがなかったのである。残念なことではあるが、地球人の節度に期待するやり方は長続きはしまい。
定期便の開設にあたって、熟慮を要する課題であった。
ハントはしばらく考えて、船長と相談した後ヴィザーに命じた。
「ヴィザー、彼が立てこもっている船室の酸素供給を停止するんだ。
瞬間冷却装置の液体窒素を用意させて、それを気化させて送り込み、室内の酸素濃度が10%になるまで低下させてくれ。
―――彼を窒息させてしまおう」
少年の自業自得とは言え、容赦の無いやり方であった。
通常の空気の酸素濃度というは約21%であり、それが半分にまで低下すると人間の意識に影響する。一桁にまで低下すれば命に関わる。
命令が実行されてから十数分後、膝を抱えて座り込んだり、うろうろと歩き回ったり、落ち着かぬ行動をしていた少年は、急にめまいと頭痛を感じ始めた。
酸欠と息苦しさを感じる理屈は別のものであり、この場合喉を掻きむしってのたうち回るということはない。
次第に気分が悪くなり、シャツの一番上のボタンを外しながら、これはおかしい、と思った途端、少年は意識を失った。

あまり時間が経つと少年の脳に障害が残る恐れがあるので、ヴィザーから室内の酸素濃度の低下が10%に達した旨の報告を受けると、テューリアン達は直ちに電子ドアをこじ開ける作業にかかった。
裁断機でドアを大きくくり抜いて取り外し、ヴィザーに命じて急激に酸素を送らせる。
穴を抜けるテューリアン二人にハントとロミ他数名の地球人が続いた。
倒れている少年をテューリアン達が抱き起こし、ハントがレーザーガンを取ろうと近付いた時、酸素に触れて息を吹き返した少年が目を開け、突如として跳ね上がると、目の前にいたハントに震える腕で銃口の狙いを定めた。
小さく短い悲鳴が上がり、ハントは体の側面に強い衝撃を感じてバランスを失った。
突き飛ばされて横にあったテーブルに腕をつき体を支えたハントが身を起こして振り返ると、近くの床にロミが倒れ込んでいた。
白いブラウスの襟元が見る見る赤く血に染まってゆき、クレメンティ教授がとっさにハンカチで彼女の首の傷を押さえると、すぐにそれでは追いつかなくなることを悟ったワットがタオルを取りに浴室へと駆け出した。
テューリアンの一人がレーザーガンを取り上げたが、少年は抵抗もせずに呆然と青ざめてロミを見つめ、もう一人のテューリアンはヴィザーに救護班を要請していた。
ハントは少年の胸座むなぐらを掴んで引き寄せると、その横面を思い切り張り飛ばした。

心配げな顔で取り囲むチームの面々に、彼女は少し強張ってはいたがはっきりとした声で言った。
「手当ては間に合う…?私は死ねないの…私が死んだら、あの子は殺人犯になってしまうもの…」
ハントにぶたれた体勢のまま座り込み、それまで自失していた少年は、それを聞くと初めて感情を取り戻したように床に突っ伏して泣きじゃくりだし、やがてテューリアン達に付き添われて大人しく帰還シャトルへと連れて行かれた。
救護班が到着してロミが担架に載せられると、彼女は血の気を失って気絶した。
ロミがICUに入るのを不安げな面持ちで見送る地球人一行にテューリアンの医師は落ち着いた余裕のある調子で述べた。
「テューリアンの世界では即死でもしない限り、怪我で死ぬことはまずありませんよ」

結局、少年のハイジャック(?)は地球人乗客らによって未遂に終わったが、これはちょっとした星交問題になりかねなかった。もっともそう思っていたのは地球人側だけではあったが。テューリアンと地球の間の治外法権などにも関係してくる問題であったが、後日協議されるであろうそれらの問題はハントたちにはさしあたって関わりが無い。
テューリアンたちは、事情聴取もそこそこに、早々に船を出発させてしまった。
事件が解決し船が出発する以上、ハント達の出張は予定通りに続けられ、ロミはテューリアンの宇宙船で治療を受けるのが一番であり、彼女はそのまま同行する、ということになった。彼女がどう行動するかは彼女の回復次第であった。意識が戻れば、彼女はきっと旅に参加したがるだろう…。
指示を仰いだチーム一行にそうコールドウェルの判断が下ると、皆はたちまちにスッキリとした表情かおになった。
いろいろ雑事は残されたものの、それらは全て帰還してからの話になるだろう。それまではコールドウェルが全てうまくやるに違いなかった。

テューリアンの医師の言った通り、ロミは約三十八時間後、船がジャイスターに着かない内に、何と絆創膏一つ手当てをしていない姿でICUを出てくることができたのだった。
傷はすっかりふさがっており、傷跡がわずかに残っているものの、それもしばらくケアを続ければほとんど分からないものになるだろうという話だった。
全く、テューリアンの技術には恐れ入るばかりだった。
彼女を見舞ったチームの一行は、何よりも彼女自身が、思いがけずに体験したその驚異につくづく感心させられた。
医療施設のエリアを出ると、自分が彼女を船室まで送っていくとハントは言った。
ハントは彼女に助けられたのであるから、誰にも異存のあろうはずはない。
ハントは彼女と二人きりになる機会が必要だった。

通路をロミと並んで歩きながら、ハントは改めて彼女に礼を述べ、その勇気を賞賛した。
彼女は言った。
「ありがとう。でもあんな時は誰だってああするものでしょう。あなただってきっと同じことをしたはずよ」
ハントはふと歩みを止め、それに連られてロミも止まった。
ハントはロミの正面に向かい合うと、そっと彼女の傷跡に触れた。
「ヴィック…」
異性に首筋に触れられて、ロミはほんの少し体を硬くして赤面した。急に体が熱くなり、ハントの指にその熱が伝わってはしまわないかと心配した。
「気にしないで、ヴィック…。あの時はたまたま私があなたの一番近くにいただけだから…」
「ロミ、君は相手が私でなくても身命を投げうって人を助けてくれたかい?」
「え?」
「多分そうだろうな。君は誰でも助けただろう。
―――でも、どうか少しでも、私は特別だったと言ってくれないか、頼むから…。
…いや、本当のところ、私は、少しどころではなく特別な―――君にとって唯一の、特別な男になりたいんだ、ロミ…」
「ヴィック…」
ロミが命をかけて救ってくれたあの瞬間から、全ての躊躇と臆病はハントの胸中から跡形も無く消えていた。
ハントにとって女性とは、守り、支えるものだった。だが、ハントは初めて女性を頼もしく、力を与えてくれる存在に感じた。
もし彼女に好きになってもらえたら、自分の弱点を含めて、全てを受け入れてもらえるような気がしていたのだ。
「ロミ―――私は君を愛している」
ロミは首に触れているハントの手に自分の手を重ねて言った。
「私…私も―――愛しているわ、ヴィック…。私、あの時、あなたを失いたくなかったの…」
ハントはにっこりと微笑むと、ロミの耳のすぐ下辺りに手を添えて頭を軽く引き寄せ、彼女の唇に口付けた。
思いがけず「命がけの登山」をやってのけてしまったらしいロミは、唇が離れると笑いながら言った。
「私ね、あなたと出会ってから、ヴィザーに資料を朗読してもらう時の音声を、あなたの声にしてもらっていたのよ」
それを聞いたハントは、ふとヴィザーに嫉妬を感じ、コンピュータにやきもちを焼くというのもおかしな気分であるものだ、と思った。

ジャイスターに着いてからの数日間、チーム一行はテューリアンの各地の美術館や博物館、遺跡などを見て周り、調査や鑑定を行った。
ハントとロミは自重しているつもりであったが、誰の目にも二人の仲の発展は明らかなものだった。
ワットは後にハントに語ったものである。
「まるで何かの手違いで新婚旅行に同伴しちゃった気分でしたね」

帰路の宇宙船での初日の晩、ハントはロミを夕食に誘い、その後自分の船室に招いた。
食事の味も分からなくなり、デザートのソルベも溶け出しそうに熱く見つめ続けるハントの視線の訴えに、いかに鈍いロミといえども気が付かないではいられなかった。
電子ドアをくぐるなり、ハントは彼女を抱きしめて熱烈なキスを繰り返した。
「今夜は何もかもが美しい。君がいてくれる世界はアートだ。君は、私にとってダ・ヴィンチ以上の芸術家だよ」
ハントの気障きざもここに極まれり、であった。
「今夜はずっと一緒にいよう。ベッドのキャンバスに君が描く絵を見てみたい…」
「ヴィック…」
こんな時、自分も何かムードのある言葉を言えればいいのに、とハントの腕の中でされるがままのロミは思った。

ベッドで二人はコンピュータでは解けない魅惑的な解を求めて、熱く脳と体がショートしてしまう程肉体的な解析を続けた。
しばらく経つと、ようやく呼吸も鎮まり敏感になっていた肌も落ち着いて、体を絡めあって横たわりながら、二人は心地良い気だるさに浸っていた。
腕の中のロミの長い黒髪を指でき、たまについばばむように口付けながら、ハントは自分の全身が甘ったるい菓子になってしまったような気分を覚えた。
今、ハントの脳はプリンと化し、血と細胞はシロップと砂糖でできていた。
自分がこれほどめろめろに恋に溺れる人間であったとは今まで思ってもみなかった。まったくザマはないものである。
だが、一生に一度くらい骨をなくすのも悪くはない…。
そう思いながらハントは自分の胸に頬を寄せて頭を預けるロミの幸せそうな顔を眺めた。
「ねえ、ロミ。今度ドレスをプレゼントするから、君のスリーサイズを私に教えてくれないか」
ロミは笑ってハントの腕を軽くつねった。
「それは私のプライバシーよ、ヴィック。あなたにだって教えてあげない」
ハントは笑って彼女を抱きしめた。
「だったら、君の指輪のサイズは?」
ロミの半分の出自である日本に「年貢の納め時」という言葉があることを、このときハントはまだ知らなかった。

そうして、その後地球に帰還して諸々の雑事が片付いた後、ハントとロミは夫婦になった。
ハントの結婚の知らせに、ダンチェッカー教授は魚のように口をパクパクさせた後、ようやく言った。
「これは進化と言うべきなのか退化というべきなのか、どっちだろうね」
コールドウェルは特に驚いた様子も無く、満面の笑みで二人の幸せを寿ことほいだ。
彼の眼力は自由で活発なハントと慎ましく包容力のあるロミのカップルの相性の良さをすでに見抜いていたために、これも想定外のことでは無かった。
皆に祝福された結婚式を挙げた後、ハント夫妻はジャイスターとジェヴレンへと宇宙の新婚旅行第一号として旅立った。
ガルース達は知識としてしか知らない地球の結婚の実態やハントの伴侶について大いに興味をそそられた様子であったが、一目惚れという概念を彼らに説明するのは少々骨の折れる仕事であった。何しろ、経験したハント本人にすらよく分かってはいなかったのだから。
そうして最後にはガニメアンたちは、二人のためにささやかなパーティーを開いてくれたのだった。

二人が結婚してから一年半後、ハントとロミは男女の双生児の父と母になっていた。
四十歳を過ぎたハントにとって、一度に男の子と女の子を両方授かることが出来たことは非常に嬉しいことだった。
遅くにできた子供は可愛い。
若いロミにとっても同じ思いで、子煩悩な夫婦であった。
ハントはよくベビーサークルの中の双子にマザーグースを歌って聞かせた。
そんなある時のことである。
「London Bridge is falling down,
Falling down,
Falling down.
London Bridge is falling down,
My fair lady….
…この崩落したロンドン・ブリッジというのは、設計ミスなのか、重力にも耐えられない構造だったようだね。
物理的に見て橋梁建設に必要な耐久強度というのは…」
乳児に真面目な顔で語りかける夫を見てロミは思わず噴き出した。

月と星の模様を描いた毛布に包まれて眠る双子の顔を見ながらハントは思った。
ハントは世界を地球から宇宙に広げた。この子達は宇宙をどこまで広げるだろうか。
ハントは絶えず未来に飛び続けていた。
宇宙は広い。たとえハントがさらに羽ばたき星々を駆け巡ったとしても、彼らのための余地を奪ってしまう恐れは無いはずだった。


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