西洋源氏物語(肆)
~青い瞳の光源氏とドレスを召した紫の上~
日清戦争からしばらくして、ハインリッヒと美津は虎狩りをするという名目で朝鮮とウラジオストックに旅行をしている。
元々狩猟好きのハインリッヒは以前から半島や大陸に行きたがっていたが、時期と場所を考えれば、視察の意味もあったと考えずにいる方が難しい。
日清戦争の後の半島に日本人が行くのは少々危険なことだった。
美津は愚直に日清戦争を日本が朝鮮の為に正義を行った戦いだと信じていたが、朝鮮の側では誰もそうは思っていなかった。
美津が半島に行くことをめるように忠告する者は多かったが、しかしそれでも美津はハインリッヒについて行った。
ハインリッヒは心配したが、美津の決意は固く、その勇気を認めざるを得なかった。日清戦争の戦禍をこうむった国を見せておくのも、この小さな可愛い「愛国者」にとっては勉強になるかもしれないと、そうも思った。
この旅行の間、ハインリッヒは美津の為に厳重な警備を備えていたらしい。
朝鮮とシベリアへの旅行は、若い女性には肉体的にも辛い旅だったが、美津は健気に良く頑張った。
美津は反日感情や猛虎や厳寒よりも、ハインリッヒと離れる方が嫌だったのだ。
ハインリッヒは常々「ジャングルの狩猟に随行し、鮮血にのた打ち回る猛獣の最後に血を沸かせるような女性でなくては結婚しない」と言っていたらしい。
社会人となって以来、年頃のハインリッヒの周りには縁組みの世話を焼こうとするお節介な人々が多かったようだから、そんな女性などいないことを承知で、婉曲に結婚の意思が無いことを示していたのだろう。
ところが、結婚相手の美津は本当に狩猟に付いてきた。美津の純粋さは、ハインリッヒが女性に対して幾重にも心に築いていた壁を一つ突破してしまったのだ。
リヒャルトは後に自伝的回想録の「美の国」で「この旅行によって二人の仲は一層親密さを増した」と書いている。
結局朝鮮で虎は現れなかった。旅行に出かける直前、ハインリッヒに急用が出来てしまい、出発が二日遅れてしまったが、その二日前に乗るはずだった船は、何と沈んでしまったのだ!実はそれがこの旅での一番の危険の可能性だったのかもしれない。
困難な旅だったが美津は朝鮮を気に入ったらしい。無邪気に「骨が折れる程、不便になる程、面白かったのです」と何とも頼もしいことを手記に書いている。
半島からシベリアへ渡ると、真冬の北国の極寒は身を凍らせる程だった。
美津にとっては初めての西洋国であったが、そんな気はしなかったらしい。
一八九一年に起工してから、シベリア鉄道はまだ完成していなかった。
シベリア鉄道の建設には、島流しになった政治犯などもたずさわっており、ハインリッヒはその何人かに招待されて訪問している。
そして、本当の犯罪者がいる刑務所も、美津を連れて見学をした。
美津は恐ろしかったが、後には手記の中でウラジオストックでは刑務所が一番見学に値するものだったと述べている。
ハインリッヒは、どこへ旅行しても刑務所や監獄を見たがった。
法学博士の学位を持っていたくらいであるから、その国の司法に無関心ではいられなかったのだろうし、また刑務所でその国の民度を測るつもりもあったのだろう。
ハインリッヒ自身、城に捕らわれた囚人だったこともある。
ハインリッヒはショーペンハウアーの哲学の信奉者だったから、この世そのものを牢獄と思っていたのかもしれない。
広く世界に開け放たれていたハインリッヒの巨大な心の王国の、その玉座を収めた壮麗な宮殿は、確かに閉ざされた牢獄でもあったのだ。
人生は悲しみの檻、誰もがその囚人なのだ―――。
刑務所見学は、ハインリッヒのプロフェッショナリズムと同時にまた、そんな自分のセンチメンタリズムを満たしてくれるものであったのかもしれなかった。

ハインリッヒが刑務所を見たがったのは、これより以前の新婚旅行の蝦夷旅行でもそうだったのだ。
因みに蝦夷ではいつか熊を狩りたかったらしい。この旅行には蝦夷のアイヌの人々についての考察を残しているシーボルトの影響も感じられる。
明治時代になってから、北海道には北方の開発と防衛の為、また職を失った士族の雇用の為に、屯田兵の入植が進められ、やがてさらなる労働力の確保の為に囚人達も派遣されて強制労働に従事していた。
美津とハインリッヒも、札幌へ向かう列車の中で早くも護送中の囚人達と出くわした。
美津は随分と恐ろしかったが、さらに恐ろしいことに、途中で一人凶悪犯が列車から逃げ出してしまったのだ。
警官達や乗客達までもが捜索に乗り出し、ハインリッヒも加わった。
やがて脱走囚が引っ捕らえられて来た。
血を流して薄汚れていて、美津には彼が獣のように見えてしまった。
脱走囚を捕まえたのはハインリッヒであったらしい。
彼にピストルを向けられた脱走囚は降伏し、ハインリッヒは警官達が囚人に暴行を加えるのを制止めて彼にタバコを一本与え、火を点けてやったらしい。
その後列車ではその話題で持ちきりであったという。
―――本当に、このひとと一緒にいると、毎日が冒険だ!
美津は何だか眩暈がするような気分になった。

朝鮮・シベリア旅行から戻り、新年を迎えると、クーデンホーフ夫妻は宮中参賀の謁見式に参加した。
美津にとっては生まれて初めての参内であった。
まさか自分の生涯で宮中に上がることがあろうとは!
ハインリッヒと結婚して以来、だんだんどんな経験にも慣れてきてしまったような気がしていたが、それでもやはりこれは美津の心に一際大きく刻み込まれた経験だった。
この時には正式な入籍も済んでいて、「あぶら屋」の小町娘お美津はクーデンホーフ伯爵夫人マリア・テクラ・ミツとなっていた。
ハインリッヒの人望のおかげで、外交使節団の各国外交官やその夫人達は多くの者が美津に親切にしてくれ、この小さな伯爵夫人を可愛がってくれた。外交使節団の団長であったベルギーのダントン男爵の夫人などは、その手記に美津への賛美を記していた程である。
この頃、宮中は西洋化によって英国風の作法をも取り入れており、それを推進したイギリス人で勤王志士の三ノ宮義胤夫人となっていた女性が、皇后陛下に拝謁することとなった美津に宮中作法を仕込んでくれた。
三ノ宮夫人の訓練の厳しさは有名で、それをこなして褒められていた美津を皆は信頼していたのだが、しかしやはり謁見の際には美津の緊張は恐ろしいくらいに高まってしまっていて、挨拶の言葉を述べなければいけない時に、皇后陛下の御前に出た途端、美津は頭の中が真っ白になってしまったのだ!
自分がどう取り繕ったのか、美津は覚えてさえいなかった。
しかし、そんな美津を優しく励まして下さった皇后陛下のお言葉だけは、美津は一生忘れることは無かったのである。
「そなたは名家の夫人として今度欧州に参るそうだが、文明の本場だからさぞかし目覚ましく楽しいことも多いであろう。それと共に、遠い異国で見知らぬ国で、生活、言語、習慣、皆違うし、色々な人事関係も込み入って随分苦しく辛いこともあると覚悟せねばならぬ。
しかし、あちらに行けばそなたが日本人の代表だから、いかなる場合でも大和撫子の本分を忘れぬように」
さらに、少しいたずらっぽいお顔で「宮廷礼装は裳裾を踏んで転んだりすることがあるから気を付けたがよい」
と仰ったとき、余裕があればその面白い雰囲気に気付いたかもしれないが、もちろんその時の美津にはそんな訳があるはずもなかった。
しかし、後に振り返ってみると、実はこれはなかなかに重要な忠告であったのだ。礼服のドレスの裾捌きというのは思いの外に難しかった。美津はよく転びそうになったものである。
そうして、皇后陛下は美津に檜扇を下賜された。
この賜物たまものは、後々まで美津にとって日本婦道の象徴であり、彼女の心の支えであった。
こうして美津は日本での最後の大きな思い出―――この時はそう思っていなかった―――を手に入れてヨーロッパへと向かったのである。
夫の故郷を見る嬉しさと、「三年も」日本を離れる寂しさを抱いて、美津は日本を発ったのだった。

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