金魚姫~ハンス、そしてエバ~
【ハンス・クーデンホーフ】

私はよく人に変わり者だと言われてきていた。
しかしそれは、そう言う人が我が家のことを知らないからで、変わり者揃いのクーデンホーフ家の中では私などはまだ目立たない方だったのだ。
私の兄などはとうとう異人種の血をクーデンホーフ家に加えてしまったくらいであった。
今では、この異国の可愛い兄嫁が一番の常識人なのではないかとさえ思う。
初めて美津を見たときは驚いた。
写真を見て既にはじめに抱いていたような野性的な女のイメージは無くなっていたが、それどころか想像以上に美しく繊細でたおやかな、妖精のような少女だった。
すでに結婚の経緯いきさつについては知っていたが、事情があったにせよ、美津は兄のタイプの女性であったことは間違いなく、そのことは兄にとって幸運であったように思う。
もっとも、辛い過去を持つ兄は一生結婚する気は無かったに違いなかったが…。
兄の過去については、前もって手紙で、美津に要らぬ心痛を与えないように、と釘を刺されていたが、言われる迄も無く家族の中に兄の幸せを損なうような真似をする者などいなかった。
私達は家を離れていたり幼過ぎたりで、あの時兄を助けることができず、皆そのことを兄に対して負い目に感じていたのだ。だから家族は皆、兄に家庭を与えてくれた美津に感謝していた。
特にマリエッタ叔母様は、兄が辛い目に会いながらも信仰を捨てること無く、異教の研究に熱心ではあっても敬虔なカトリックに留まっているのは、美津のおかげであると思っていたようだ。
母を早くに亡くした私達にとって、今はこのマリエッタ叔母様が母親のようなものだった。
兄夫婦は事情によりヨーロッパに留まることになったが、ある日、家族が集まって食事をした時、美津の支度が少し遅れてしまったことがあった。客の多かった兄夫婦はいつも盛装で食事をしていたのだ。
兄は先に食事を始めるように言ったが、叔母はそれを許さなかった。
「そんなことは女主人の威厳を損なうことですよ。ミツを待ちましょう」
そう言って彼女は杖に寄りかかったまま美津が来るのを待っていた。
少ししてやってきた美津は、みんなが待っているのを見てびっくりし、バツの悪い思いをしたようだが、マリエッタ叔母様が自分を尊重してくれたことにとても感激していたようだ。
もともと、叔母様は長兄のハインリッヒを一番可愛がっていたから、美津のことも可愛がっていたのだろう。
しかし兄と叔母は全くと言っていい程ものの好みが違っていたのだから不思議なものだ。
兄は英国かぶれで、ワグネリアンで、ショーペンハウアーの哲学に傾倒していたが、叔母は英国嫌いで、アンチ・ワグネリアンで、兄がショーペンハウアーの哲学に傾倒していることを心配していた。
叔母にとっては一見するとペシミスティックなショーペンハウアーの哲学は暗過ぎるように見えたのかもしれない。兄のような苦しみを持つ人間には悪影響だと思っていたのだろうか。しかし、兄にとってはむしろその哲学は救いであったように思える。
ワグナーもショーペンハウアーも、人を選ぶが革新的なその「作品」の素晴らしさに比べて、作者は偏屈だったり不品行だったり人格的に問題が多かったから、「作品」と共に激しく好悪の分かれる人物だったのだ。
しかし、それでも兄と叔母は仲が良かった。

兄は休暇の後の任地に、再び東洋を望んでいた。もちろん美津の為である。
帝国外務省は兄の為にシンガポール公使兼総領事という新たなポストを創設し、彼を抜擢したのであった。
わざわざ地位を用意してまでの、兄の若さでは異例の出世だったのである。
何もかもが順調であるはずだった。
しかし、まず、その内定を受け取った頃、美津が懐妊していることが判った。
出世を望むなら兄は一人でシンガポールに行かなくてはいけなかった。
妊娠中の船旅は勧められないと医者に言われたし、一時的とはいえ美津を不慣れな土地に残して単身赴任することは兄は心配で仕方が無かったのだ。
美津も兄と離れたくなかったし、二人はとても思い悩んだ。
マリエッタ叔母様が「ミツと赤ん坊のことはわたくしに任せて、あなたはシンガポールにお行きなさい」と申し出てくれ、赴任の期限が迫りつつある中、兄は渋々旅立つ支度を始めた。
しかしそんな時、我が家の管理人の不正が明らかになり、兄は結局ロンスペルクに留まらざるを得なくなってしまったのだ。
兄がぐずぐずしているのを見てしきりに早く任地へ発つことを勧める彼に、兄は不審を抱いたらしい。その急き立て方が尋常では無かったようだ。
彼は「一刻も早く任地でキャリアを積まれ、ご出世なさるべきです」と言いながら、実は不正が発覚することを恐れていて、兄には遠くにいてもらいたかったのだ。
賢い兄のことだから、あっという間にこの男の不正の数々を調べ上げて暴いてしまった。
兄はこの管理人をクビにして、自分で領地を経営することを決意した。
この管理人は、母の侍女であったひとの息子で、我が家では家族同然に育っていた男だった。
こういう男に裏切られたとあっては、兄ももう他人に任せようが無くなってしまったのだ。
それでも退職金の半分はくれてやったのだから、兄もお甘い。
しかし、私も別の意味で甘かった。
父が亡くなって後、長男の兄が不在の間、次男の私は管理人に全て任せきりだったので―――それだけ信頼していたのだ―――その間に彼は不正を働いていて、誰も何も言わなかったが、私はすっかり面目を失ってしまったのだ。

兄は結局シンガポール公使のポストを断り、外交官を辞職した。
兄にとっても苦しい決断だったに違いない。
兄はとても有能で、そのままキャリアを積んでいたなら帝国の外務大臣にさえなれたであろう。実際、そこは兄の予約席のように思われていたのだ。
あの管理人は、自分が一人の男の運命だけでなく、歴史を変えてしまったことを自覚しているのだろうか。
歴史というのはこういう小さなことで大きく変わっていくものらしい。
帝国外務省は余程兄を手放したくなかったようだ。当然だろう。兄のような人材がそうそう見つかる訳が無い。
結局、外務省は兄の辞職を「永久休暇」という形で認め、アジアに事あるときには切り札として出馬することを約束させた。結局、彼の生前にはその機会が訪れることは無かったけれども。
因みに、兄の推薦によってこのシンガポール公使のポストはその後シーボルト氏にオファーされたが、彼も体を壊していて断ってしまったそうだ。
兄は一旦決意すると、もう後悔も嘆きもしなかった。
外交官の道を失ったのは大きな損失ではあったが、何をやろうと成功してみせる自信もあったのだろうし、美津や子供達と一緒にいられるというプラスの面に目を向けることにしたようだ。
実際、兄は外交官を辞めて研究に没頭し、ロンスペルクの城で家族と過ごしていた年月が一番幸せであったように見えたのだ。
兄はキャリアを投げうって家族の為に生きることを選んだのである。
結局、兄は兄らしい生き方をしたのだと、そんな気が今はしている。


【エバ・フォン・イブラニー】

ほぼ、一目惚れに近かったと思う。
私はロンスペルクに来て十日もしない内に、旦那様に夢中になった。

私はヨーロッパに留まることになった伯爵夫妻に、伯爵夫人のお雇い話し相手ゲゼルシャフタリン兼家庭教師としてロンスペルクに雇われた。
そこはかなり変わった家だった。日本人の奥様がいてアルメニア人の執事が居り、お子様達は混血だった。
しかし、旦那様の輝くようなオーラのもとではそれも普通に見えたのだから不思議なものだ。
私はそれなりに有能である自負があったが、それでも奥様とはあまり上手くいっていたとは言いかねる。
別に表面上は私達の間にこれといった問題があった訳では無かったが、私は心の底では彼女を嫌っていたから、やはりそれが相手にも微妙に伝わってしまっていたのかもしれない。もちろん、上辺では私はきちんと礼儀を守っていてへまなどしなかったつもりだが。
実のところ、私はハインリッヒ様を夫にしている東洋の小娘が涎が出そうなくらいに羨ましくて、彼女に猛烈に嫉妬していたのだ。
彼女が全くと言っていい程夫の役に立たない女であったくせに、彼に可愛がられていたことが腹立たしくもあった。
彼が外見だけで妻を選んだとは思えないが、確かに彼女は美しかった。
武骨な西洋の女とは違う繊細な柔らかさがあり、なよやかで、きめの細かい綺麗な肌と艶のある長い黒髪をしていたのだ。
この女の体が彼を満足させていることは疑いない。
そう思うと憎らしくてたまらず、思わず頬を張り飛ばしたくなるのをスカートを握りしめて我慢することがしばしばあった。
ハインリッヒ様は、たった一人の女性を除いて、すべての女性に同じ思いを抱かせただろう。
どうして、この男が自分のものではないのか、と。

実のところ、私はお守りのようなお話相手や家庭教師であると同時に、奥様の見張り役だったのだ。
ハインリッヒ様は私を雇うときに私にこっそりこう仰った。
「ミツのことをよく見守ってやっていてくれ給え。彼女にはあまり俗世間には触れさせたくないのだよ。―――特に、私達夫婦の仲を損なうような噂などは、絶対に彼女の耳に入らないようにしてほしい」
とても苦しそうな表情だった。
何か妻に隠し事があると言っているようなものである。この方に後ろ暗いことがあるなどとはとても思えないのだが。
私は彼のスパイになり、そういう共犯関係は心楽しいものだった。
彼には何か秘密がある。それを探り出して脅しのネタにし、彼に関係を迫ってやろうかと、どれほど思ったことかしれない。
もちろん、そんな誘惑を実行に移したりはしなかったが、妄想だけは膨らんでいったのだ。
奥様付きの侍女などというものは主人の餌食になりやすく、私も今迄に雇われ先の主人に色目を使われたりしたことが無い訳でも無かったが、私にはそんな男などは気持ち悪いだけだったのだ。
誠実さを欠く男など野獣とどこが違うのか。
それなのに、この私が、こんな幼稚で、下品で、卑劣な妄想をしてしまうとは!
私は教養も分別もあるいい大人の女だったというのに。
しかしハインリッヒ様には明らかに女を狂わせてしまうような魔性があった。
もっとも、私などが色仕掛けで誘惑しようとしたところで、まじめな硬派でどちらかといえば女嫌いに見えたハインリッヒ様には通用しなかったであろう。
それにしても、一体、彼は何を隠していたのだろうか?

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